まるで映画『トゥルーマン・ショー』のよう

岸田文雄総理や菅義偉前総理がわれわれの家族でないのと同じように、眞子さんはわれわれの家族でもないし、知人や友人でもありません。眞子さんは私たちのことをまったく知らないのです。

逆に私たちの方はもちろん眞子さんのことを知っていますが、これは眞子さんが映画『トゥルーマン・ショー』のように、生まれたときからメディアを通じて日本中の視線に晒されてきたからにすぎません。

2014年1月2日の一般参賀で日の丸を振る人々
写真=iStock.com/brize99
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眞子さんが小室さんと結婚して幸せになれるかどうか、これは本人同士にしかわかりません。

結婚してうまくいけば良し、うまくいかなかったとしても困るのは眞子さんであって、われわれ国民ではありません。

結婚は公務ではなく私的な行為

結婚に反対する論者たちは、「眞子さまは『公』よりも『私』を優先している」などと言って批判します。こういう言葉をメディアは無批判に垂れ流してきたのも記憶に新しいところです。しかしここでいう「公」とか「私」とは何でしょうか。

皇族の仕事は「公務」と呼ばれて、各種行事に出席したり挨拶したりすることですが、眞子さんは小室さんとの恋愛や結婚に没頭して、このような公務をさぼったのでしょうか。そんな話は聞いたことがありません。

これに対して結婚は公務ではなく、わかりやすくいえば、映画を見たり、食事をしたりするのと同じレベルで、あくまでも私的な行為です。

もっとも男性皇族の場合は、皇位を継承する可能性がありますから、将来の皇后や皇太子妃になる可能性にふさわしい相手を選ぶのが望ましいとされるのもわかりますが、女性皇族は現在の制度によれば、結婚すれば皇族から離脱して一般国民になるだけですから、そのような考慮をする必要もありません。

そうなると、眞子さんが小室さんとの結婚を進めたとしても、「『公』より『私』を優先した」などと非難されるいわれなどないことになります。

「国民の心に寄り添う」という言葉の本当の意味

これに対しては「小室さんとの結婚には反対や疑問を示す声が世間に多かった。世間の異論を無視して結婚するのはおかしい。皇族は国民の心に寄り添うべきだ」という主張も見られました。

筋が通った意見のように思えるかもしれませんが、これもおかしな話です。

国民がA氏と結婚するなといったらA氏との結婚をやめ、B氏と結婚しろといったらB氏と結婚するのが「国民の心に寄り添う」ことになるのでしょうか。

女性皇族は結婚相手を自由に選ぶこともできず、いちいち国民の「心」とやらにお伺いを立てなければいけないのでしょうか。一見もっともらしい言い方ですが、極めて非人間的な発想に思えます。

これは、現上皇が各地を積極的に訪問され、人々と触れあって声をかけたり挨拶したりしてきたことから「皇室は国民に寄り添うものだ」というイメージが強く形成されたことに関係があるとも言えるでしょう。

しかし、被災地など各地の人々に触れあうことと、結婚に対する国民の賛否にいちいち合わせることとは、まったく別な問題です。