政権交代は野党側の努力「だけ」で達成されたものではない

戦後日本政治の局面は、高度成長を経て中産階級が拡大し、都市人口が増大したため都市部の無党派が増えた。彼らの多くは当初社会党や日本共産党(あるいは公明党=後に自公連立)、つまり野党支持であった。

それに対し自民党は伝統的に農村郡部や大都市周辺の中間団体(建設、医療、郵便、地元商工会など)を支持基盤としていたが、01年の小泉政権を皮切りに、疲弊し続ける中間団体で最大のもののひとつ=郵便関係を切り、大都市部の中産無党派層への支持に訴求することによって衆院選で大勝利した。自民党はその支持基盤を農村郡部から大都市部の中産無党派層に切り替えたのである。

このような自民党の支持基盤の変遷が、21世紀にとりわけ顕著になった。それは2000年の森内閣を嚆矢こうしとする清和会内閣の特色でもあったが、すなわち自民党はカメレオンのように、時代の趨勢に合わせてその支持基盤と“同じような”保護色で自身を擬態させる能力に長けている大衆政党である。

よってこの自民党を突き崩すのは、初手から容易なことではない。09年の民主党政権誕生は、リーマンショックによる大不況という時代背景が重なったものであり、すわ僥倖の一種で、決して野党側の努力「だけ」によって達成されたものではない。一度の成功が、二度あると信じること自体がどだいおかしい話である。

リベラルが自己批判するのは間違っている

そもそも論を突き詰めれば、戦後日本の有権者自体が至極保守的にできているのだ。戦後民主主義を微温的に首肯しつつも、実際の社会生活は男尊女卑の家父長主義で、急進的な改良を嫌い、現状維持か微修正で留飲を下げる。ロッキード事件であれほど批判にさらされ、田中角栄が逮捕されても自民党がなんとか政権を維持したのは、戦後日本の有権者が権力に対する批判精神をあまり持たず、根が保守的にできている何よりの証左なのである。

マックス・ウェーバーによれば「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業」(『職業としての政治』)である。

このような政治風土の国で、リベラル政党が既存の保守政党に取って代わるということ自体、非常な継続能力と困苦が伴う。

「簡単に自民党支配を打破できるはずだ」「打破できないのは有権者がばかか、あるいはリベラル自らの誤謬によるものである」という早合点と自己批判は間違っている。戦後日本の政治風土は、そもそもリベラル的価値観になじんでいないのである。言葉を悪くすれば、それほど戦後日本の政治風土や政治感覚は後進的なのである。