広い屋敷の中で奴隷扱いされていた弟

翼は、どれほど寒い日であってもお湯を使うことは許されず、風呂でも水を使わされていた。健一の虐待に父親や兄は全く気がついていなかった。

よく健一は、「翼と訓練をしてる」と言って、翼が傷だらけで帰って来ることがあった。健一は怒り出すと止まらないところがあり、真奈美は恐怖を覚えることもあったが、家族は信用できず、頼れる人は唯一、健一だけだった。

広い屋敷の中で、翼は完全に奴隷だった。昼間は外で働かされ、夜は健一と真奈美の世話をさせられるのだ。疲れて帰ってきているにもかかわらず、ふたりの食事が済むまでは食事を摂ることが許されなかった。食事はいつも残飯で、見る見るうちにやせ細っていった。

ある時、翼が洗面所にいると、

「おまえもたもたすんなよ。髪なんかとかして生意気だ」

と言って、健一はバリカンで翼の髪の毛を刈ってしまった。こうした行為を目の当たりにすることによって、真奈美は暴力が自分に向くことを怖れ、健一への服従をさらに強めていった。

これまで真奈美が翼に暴力を振るったことはなく、仲が悪かったわけではない。健一が加える暴行に、「やめて」と言ったことはあったが、助けを呼んだり体を張って止める勇気はなかった。

「翼は被害者の道、あたしは加害者の道を行くよ」

幼い頃、仕草が女の子のような翼は、学校で友達にからかわれ、いじめられることもあった。

「やられたらやり返さなくちゃダメでしょ」

気の強い真奈美は、いつもそう諭していた。

「僕、それができないんだよね」
「もし、殺されそうになったらどうするの?」
「殺されても、殺すのは絶対無理だね」
「えー、何もしないで殺されてもいいの?」
「よくはないけど、殺すよりはマシかな」
「翼は被害者の道、あたしは加害者の道を行くよ」

翼は笑っていた。その言葉が現実になってしまった。健一はその日、やけに機嫌が悪く、翼は蹴られたり叩かれたりしていた。健一は、敷地の奥に住んでいる祖父母の存在が邪魔になっているようだった。

健一は翼に、家族全員の財布からお金を盗ってくるよう命じたり、通帳の残高を調べさせたりしていた。祖父母は健一に優しかったが、父や兄と比べると自宅にいる時間が長いので、翼の変化にも気がつき始めているようだった。

「いい加減にしろおまえ、何でできないんだよ!」

健一は激高して翼を殴り続けた。

「もういいじゃない。あんまり騒ぐと、お父さん起きちゃうよ」
「うるさい! あっち行ってろよ」

健一は、そう言って真奈美を追い出した。

「それだけは勘弁してください」

翼は謝り続けていた。そして翌朝、自宅の前で倒れている翼を兄が発見したときには、すでに手遅れだった。

おそらく健一は、祖父母の殺害を翼に要求していたのではないかと思われる。翼に、そんなことができるはずもなかった。我慢し続けてきた暴力からようやく逃げようとしたところで、力尽きてしまったのだ。