「教育している」構図にしないと相手からバカにされる

この記事(コラム)だけの問題ではありません。長い、しかも妙な拒否感がある、失礼だと分かっていながら、途中で「切り」たくなる。先のマウント取り会話のように、「切るな」と言われたから切りたくなる抵抗感。さらにもうちょっと詳しく言うと、そう、叱られる気分。私の上司でもない人が、一方的に上司を演じながら、私を「訓戒」している(教育している)、そんな不愉快な感覚になってしまいます。

訓戒は、基本的に上の人が下の人に行います。下の人は、上の人の話を切ってはいけません。それは下剋上です。だから韓国側の文章には「戒める」ニュアンスで書かれたものが多く、そのために文章や段落、または記事の字数を引き伸ばします。誰かを戒める文章を書く側が、その戒めの相手、または読者そのものを、「教育している」構図にするためです。これは、意図的というよりは、社会的心理が反映されたある種の処世術でもありましょう。そう書かないと、相手からバカにされる、という。

二〇一九年、韓国で二十五万部以上の大ヒット(韓国は日本より市場が小さいので、日本での百万部クラスのヒットに匹敵します)を記録した『あなたが正しい』という本には、「親が子に言うのは九十九・九%が子を見下しているから」「たとえ親でも、あなたの境界を破ってくるなら、切り捨ててしまえ」という衝撃的な内容が、心理カウンセリングとして書いてあります。職場の人からの忠告も、どうせ見下されるだけだから、受けるな、そして忠告なんかするな、というのです。

「訓」には「下のものを教育させる」という意味がある

私はこんな主張にはどうしても同意できませんが、まわりの全ての会話がそうなっているから、そもそも言うな、聞くなというとんでもないカウンセリングが成立するわけです。

朝鮮半島では、昔から「下のものを教育させる」という意味で、「訓」の字を使ってきました。まだ学校というものが出来る前には、読み書きなどを教える人を「訓長」と言いました。朝鮮の王「世宗」がハングルを作ったときにも、最初は「訓民正音」と言いました。

その目的は「漢字が分からない愚民たちは言いたいことがあっても書くことができないので、哀れに思い新しい字を作った」となっています。この考えが、「訓」の認識として今でも残っていると言えるでしょう。

もう少し面白い事例だと、テコンⅤがあります。皆さん、韓国の劇場用ロボットアニメ『ロボットテコンⅤ(ブイ)』というものをご存じでしょうか。四十代、五十代ぐらいの韓国人なら誰もが知っている、国民的なヒットを飛ばしたアニメ映画です。そのロボットのパイロットの名前が、金訓です。悪党に、正義を「分からせて」やるという意味です。