話だけでなく文章も長い
また、これから書く内容の脈絡に合わせると、「感謝」にしてもいいでしょう。なかなかありえない(有り難い)と思う心。それが、ありがとうの源。「私は配慮を受けて当然だ」と思えば思うほど、世の中のありがとうは一つずつ消えてなくなります。だからくだらないことで勝ち負けにこだわったりするわけです。
尊重や感謝のない、ただ長いだけの文章、または会話。それがいかに窮屈で、くだらないものなのか。私が主に読んでいる韓国語文章は、もちろん書籍や論文なども読みますが、基本的には「記事」、特にコラム系のものです。毎日、ブログを書いていますから。
データや現状だけ黙々と伝える記事ももちろんありますが、ある種の自己主張のある記事、コラムや社説系の記事を読んでいると、なぜか「長い」と感じてしまいます。長くても説得力があり、読み手を最後まで惹きつける文章は、いくらでもあります。でも、この場合はそうではありません。読んでいると、その趣旨に同意するか、しないかとはまた別に、妙な拒否感があって、なかなか内容が受け入れられず、読み終わる頃には何の話だったか忘れてしまいます。
そう、先の「私の話を切るな」と同じに思えます。
本題はコラム全体の約二割
最近読んだものからサンプルを一つ紹介しますと、以下、二〇二一年六月二十六日、『東亜日報』の論説委員が書いた記事です。さすがに全文を載せる必要はないと思いますので抜粋しますと、全般的には「日本に対する古い観点を捨てないと、日本には勝てない」という趣旨の文章ですが、申砬という朝鮮時代の武将の話で始まります。
申さんが活躍して王の注目を浴びるようになった、という話になって、次は彼が日本軍の鉄砲に破れたこと、日本が鉄砲を改造したこと、朝鮮の当時の安保体制が甘すぎたこと、などなどを書いてから、やっと本題の「日韓関係」の話が出てきます。それから韓国政府の日本関連政策がうまくいかないでいるのは、「日本に関する情報が足りないからだ」として終わります。
本題はコラム全体の約二割だけです。その二割は、韓国政府及び与党を「叱る」内容ですが、いざ「反日思想」の根本的な部分、そして日韓基本条約(請求権協定など)による韓国の国際法違反状態については、何も指摘していません。