ゴッホの激しさ、ロダンのスピード感

シーレは出所した後、クリムトから紹介してもらった資産家の支援を受け、再び制作を開始。逮捕・投獄という人生のどん底から立ち直ることができた。22歳でクリムトらの分離派展に参加し、多くの版画や詩などを創作する機会に恵まれた。

エーディトをモデルに描いた『左足を高く上げて座る女』(1917)
エーディトをモデルに描いた『左足を高く上げて座る女』(1917)。プラハ国立美術館蔵(写真=CC-PD-Old-100/Wikimedia Commons

しかし、そんなシーレが憧れていたのは、命の恩人であるクリムトではなく、圧倒的にゴッホだった。特に「ひまわり」が大好きだった。ゴッホ風のひまわりをたくさん描き、彼に少しでも近づこうとした。わずか10年の間に2000点以上もの作品を残して自殺したゴッホのように、自分もなりたかったのか。

シーレは、ゴッホの病的な感性、狂気のスピード、死のイメージを武器に闘っていこうと考えていたに違いない。そして、デッサンには、フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの影響が最も強い。ロダンがモデルを描く時に自由にアトリエを歩かせたり、寝かせたりしてスケッチした「即興的な手法」を真似まねして描いた。

おそらくシーレは、ゴッホの表現主義的な激しい筆さばきに、ロダンのスピード感溢れるエロティックな線を融合させ、躍動感に満ちた新しい絵画を描きたかったのだろう。

妻とその姉、元カノとの「四角関係」

24歳になり、ウィーンに戻ってきたシーレ。そこで、4年間も彼の創作を支えてくれた恋人のヴァリーがいたにもかかわらず、近所に住むアデーレとエーディトという姉妹に恋をしてしまう。姉妹が裕福な家柄だったため、お金に目がくらんだのか、恋人ヴァリーを捨て、妹のエーディトと結婚するのだ。

信じられないことに、シーレは別れたヴァリーに今後も会おうと連絡し、姉アデーレとも肉体関係を継続した。シーレは、このねじれた三股の恋愛関係を創作のバネにした。妻とその姉、元カノ、そして死神のような自分をモチーフにした傑作を描くことで、青年シーレは「天才画家エゴン・シーレ」になれたのだ。