組織における忠誠心と怨恨の問題は、われわれ人間にとっては、永遠の悩みどころなのかもしれない。
『戦国策』にこんな話がある。中山という国の君主が、都の貴族たちを招いて饗宴をひらいた。その席に司馬子期という人物も出席していたが、たまたま羊のスープが足りなくなり、彼のところまで回ってこなかった。
これに怒った司馬子期、なんと隣国の楚に逃亡して楚王をけしかけ、中山を攻撃させたのだ。中山の君主は、やむを得ず国外に逃げようとする。すると、二人の人間が、ホコを手にして彼につき従った。
中山の君主は振り返って、二人に尋ねた。
「きみたちは何者かね」
二人はこう答えた。
「われわれには父がおりまして、かつて飢え死にしそうになったことがあります。そのとき、君主が一壺の食料を恵んでくださったので、餓死を免れました。父は亡くなるときに、こう言い残したのです。『もし中山国にことがあれば、お前ら必ず命を投げ出せ』
だから、われわれはここに来て、国のために命を投げ出そうとしているのです」
中山の君主は、思わず嘆息して、こう述べた。
「恩恵を施すのであれば、量の多い少ないは関係がない(与うるは衆少を期せず)。問題は、相手が困っているタイミングに、みを買うか否かは本人自身の与かり知らぬ面があるという点だ。
そもそも、怨みの原因となった饗宴でのスープの差配は、宴会を担当する番頭役の仕事であり、また責任だ。しかしそこで問題が生じると、組織のリーダーが糾弾を受け、怨みの標的にされてしまう。
現代でも、こんな例がある。戦後の政財界の指南番として活躍した漢学者・安岡正篤が、リーダーの心得としてよく口にした言葉の一つが、
「任怨分謗(にんえんぶんぼう)」
であったのだ。読み下せば「怨(うら)みを任じ、謗(そし)りを分かつ」となろうが、結局、リーダーというのは、中山の君主のように下からの怨みや謗りを、本人の責任ではなくとも受けざるを得ない立場。ならばそれも仕事と覚悟を決めよ、という教えなのだ。
もちろん、この問題はリーダーに限られるものではない。およそ組織に属している人間であれば、日常こうした感情面での結ぼれはつきまとってくる。端的なのが同僚などからの嫉妬だ。
「あいつの方が先に出世した」「上司に可愛がってもらっている」と同僚の妬みを受け、いやがらせされてしまう、というケースは、どんな組織でもつきまとうものだろう。
こうした怨みや嫉妬は、非合理で非理性的な感情にもとづくゆえ、予想や対処が難しい。もちろんリーダーであれば、それをがっしり受け止めるべきなのだが、中山の君主のように、それで国までひっくり返されたら、たまったものではない。
そして、ここで重要になってくるのが、中山国の話でいえば二人の勇士を得た恩恵の施し方。
怨みや嫉妬と違い、恩恵の方は施す側が自分の意思でコントロールできる。だからこそ、施すタイミング如何では、たいした施しでなくとも大きな効果を発揮し得る。この保険の掛け方が、意図せぬ怨みで足をすくわれたときのセーフティネットになってくれるわけだ。