日本一から、世界一へ
この日から世界を目指しての特訓が始まる。車椅子テニスはワンバウンドでなく、ツーバウンドまで返球が許される。しかし、ワンバウンドで返球できれば相手は返球までの時間が短くなる。有利に展開でき、エースも奪える。よってワンバウンドでの返球が義務化される。健常者のテニスである。国枝は抜群のチェアワークとスピードでそれを実現する。車椅子テニスとは思えないテンポの速いテニスだ
麗澤大学に進学した03年、国枝はとうとう日本一となる。NEC全日本選抜車いすテニス選手権男子シングルスで、これまでの王者、斎田悟司を破って初優勝を遂げる。
しかもその斎田とダブルスを組み、翌04年のアテネパラリンピックで金メダルを獲得するのだ。世界の檜舞台に立った。
「ダブルスで頂点に立ったと言っても、シングルスではまだまだ世界のレベルに全然達していなかった。シングルスでも活躍したい。もっともっと強くなりたい。そう思いました」
そのためにはワンバウンドといえどもボールが跳ね上がった時を打つライジングボールが打てなければならない。さらに速い動きでボールに近づき打ち返す。難しい技術だった。さらに、バックハンドでトップスピンをかけてダウンザラインにエースを放てなければならなかった。
北京五輪で念願の金メダル、プロへ
「トップスピンのダウンザラインをマスターしなければ勝利はない」
丸山は国枝に檄を飛ばした。「1つの技術をマスターするには3万球打たなければならないというデータがある」と丸山は言う。実際に打った球数を数えながら練習した。国枝のノートに残り1万5000球と書かれているページがある。途方もない球数を国枝は打ち、トップスピンのダウンザラインをマスターしたのだ。
この技術を得るとともに国枝の勝利は圧倒的に増えた。06年10月にシングルスの世界ランキング1位となり、07年に当時の車椅子テニスのグランドスラムを達成する。世界テニス連盟からこの年の世界チャンピオンに選出されたのだ。
こうして08年に念願のパラ五輪で金メダルを獲得する。北京パラである。
「日本では金メダルがオリンピックでもパラリンピックでも大きく報じられます。北京での金メダルでようやく僕の名前と車椅子テニスが知られるようになった。初めてスタート台に立てた気がします」
国枝は09年、麗澤大学職員を辞して一気にプロに転向する。
「車椅子テニスで生活していけるか。大きな賭けでした。でも、やりたいことがあれば挑戦する。世界には車椅子テニスのプロがたくさんいる。僕もそのひとりになりたかった」
大会の賞金と契約スポンサー料で生計を立てる。足の動かない障害者がスポーツで身を立てる決心をしたのだ。しかしもはや国枝には障害者か健常者かの区別などなかった。ひとりの車椅子テニスのプロプレーヤーだったのだ。
思いもよらぬ肘の故障
その後も全豪、全仏、全米オープンなどグランドスラム大会を制覇していく。出場すれば優勝という無敵の強さを誇る「絶対王者」と呼ばれる。車椅子テニスのプロプレーヤーとして順風満帆だった。ところが少し陰が落ちたのが12年。ロンドンパランピックの前に肘を痛めた。手術をし、無事に回復、ロンドンパラでは前人未踏のシングルス2連覇を成し遂げた。
「少しずつよくする積み重ね。1本ずつの積み重ね。それで勝っていった」