プレーを支える妻の“愛”

さあ、時間だ。国枝は車椅子に乗り、センターコートに出て行く。手を使わず、車椅子を左右に揺すって前進、一般客はコロナのためには入れないが、唯一許された日本選手たちが国枝を声援する。両手を挙げて日の丸を振る。それに応える国枝。

「観客の声援が聞こえたとき、僕は幸せな男だなと思います。力が湧いてきてきます」

スタンドが満員になり、その前で素晴らしいプレーを見せることを夢見てきたが、今はそれが少数であってもモチベーションとなる。テレビの前では多くの人が応援してくれていると信じているからだ。その中には、会場に入れない愛する妻、愛さんもいる。

愛さんとは大学でテニスサークルが一緒だった。国枝が初めてパラリンピックに参加した04年のアテネ大会で斎田悟司とダブルスを組み、金メダルを獲得したときから交際を始め、11年に結婚した。それ以来、国枝の身の回りをサポートしている。13年に国枝の食生活向上のためにアスリートフードマイスターの資格を取得、健康増進に寄与している。愛さんは毎日自分の作った料理をSNSに公開、スポーツ選手を家族に持つ人たちへ役立ててもらおうともしている。その料理の数々は栄養価も高くバランスよく、しかも大変においしそう。国枝が羨ましい限りだ。

国枝が選手村に入る前夜の献立メインは鯛めしだった。遠征前夜好例のメニュー。大きな切り身が2つ、米と昆布の上に並べられ、ストウブ鍋で炊きあげた一品。見るからに美味そうでよだれが出るほど。愛さんはSNSに書いている。

「定番の鯛めしをお腹いっぱい食べてもらいました! 無観客の開催のため、残念ながら家族も会場には入れません。東京開催が決定してから8年間ずっと楽しみに待ち続けたこの日をそばで応援できないのが正直とても哀しいですが、難しい状況の中で開催していただけることに感謝しています。私は自宅から念を送り続けようと思います」

国枝はたらふく鯛めしを食べた翌日に選手村に入り、その日から「オレは最強だ!」と言い続けた。開会式では選手団団長として160カ国4403人の選手の前で選手宣誓し、「1人ひとりの選手が勇気と覚悟を持って、この世界最高の場で全力を尽くす」と声を響かせた。日本選手団には団長として「言葉ではなく結果を残して選手団によい流れをもたらしたい」と明言。愛さんはテレビでこの宣誓を見て「お疲れ様でした」と夫をねぎらう一方、さぞ誇らしく思ったに違いない。

国枝はコートのベースライン際に車椅子を運び、颯爽とラケットを振る。王者の貫禄を見せながら、エフベリンクと試合前のウォームアップラリーを繰り返した。

車いすテニスとの出会い

国枝は9歳のときに突然、脊髄腫瘍を患った。腰が痛くなり、調べると、脊髄の癌だった。抗癌剤を打ち、手術する。目が覚めたとき、下半身が動かなくなっていた。

「そのときはずっと車椅子に乗らなければならないとは思いませんでした」

それまでは好きなバスケットに夢中だった。もうみんなと一緒に遊べない。信じ難いことだった。いつか治るものと思った。しかし、そうはならない。ようやく車椅子生活を受け入れられたのが2年後。11歳のときに母の勧めにより吉田記念テニス研修センターで車椅子テニスを始める。車椅子バスケがやりたかったが、近くにチームもスクールもなかったのだ。