戦後の日本は、吉田茂首相以来の徹底した経済優先政策が功を奏して、廃墟からの奇跡的な経済復興を成し遂げ、世界から称賛を受けるのだが、国民の関心は、ひたすら「暮らし向き」「豊かさ」に集中する。軍備を放棄した戦後日本に、「国家」戦略があったのかどうかは疑わしい。「アメリカ」の軍事的な傘を都合よく解釈して、ひたすら「平和」と「豊かさ」を貪ってきたのである。戦後60数年、戦いの場で生命を失った軍人がひとりも出なかった、幸せで不思議な国、それが現在の日本なのである。
空白が続く現在の日本の政治が、世界から遠くにあるのは、この戦後日本のあり方そのものに起因しているに違いなくて、現在の政治的空白と空虚をつくりだしたのは、国民の意識そのものでもある。
経済大国日本の現状が、あまりに世界とかけ離れてしまったのはなぜなのか。そんな思いに、ひとつのヒントを与えてくれるのが、重光葵という戦前から戦後にかけて外交の中心にあった類稀な人物であり、その足跡をラフではあるが、辿ってみたのが本書である。
戦争に至る過程では、日中戦争の拡大を最小限にとどめる努力をし、日米の開戦に反対しながらも、職を辞することなく、戦時の外相として「大西洋憲章」に対抗する理念を掲げ、欧米からのアジア諸国の解放を基本とした「大東亜憲章」を画した。平和への最大限の模索をした重光は、戦後、ミズーリ号での無条件降伏調印式に日本を代表して署名し、東京裁判ではA級戦犯とされ、巣鴨に4年収容される。復帰後、再び外相となり、1956年の国連加盟にあたっては、国連総会で謝辞を述べたのも重光である。
「再軍備など愚の骨頂」とする吉田と、「独立国家として、日米対等の軍事同盟を築こう」とした重光の国家観を比べると、重光のそれは重厚であり、吉田のそれは軽く、脆弱であるとするのが、著者の基本的な考え方である。
貧しくとも気骨のある漢学者を父に持ち、教育勅語を諳んじ、毎朝の沐浴を欠かさなかった重光は、まさに明治の国家観の人であり、日本人には稀な、優れて鋭敏な戦略家だったという。
英国大使の折、ドイツ軍の空爆と英国民の対応、チャーチルの演説を聞き、「ドイツ人は戦争を政治と見ている。イギリス人は戦争を政治の一部と見ている」として、ドイツが勝つはずはないとしている。にもかかわらず、戦時下の外相を務めた重光は、戦犯として戦後の東京裁判で裁判される。駐日英国大使、駐英米国大使、在ソ米国大使、ハンキー卿(国務大臣)等々が、「自由主義者、平和主義者、反三国同盟論者としての重光」の努力を明らかにしたにもかかわらず、有罪の判決を下される。
政治空白の大衆主導社会の日本を見るにつけ、重光葵という孤高の外交官の生きた跡を辿るのは意味あることだと思う。