サッカー選手に限らず、人間は常に可能性を秘めていると考えている。

今の若者は覇気がないといわれる。しかし、これは彼らにすべて責任があるわけではない。今の日本の社会は、人間が家畜化している。冷暖房が効いている中、餌が流れてくる。苦労しないで生きていくことのできる、家畜の目はトロンと緩むのは当然だろう。

アフリカでは1日4万人が餓死しているが、自殺する人間は誰もいない。一方、日本では年間3万人も自殺している。どうしてこんな豊かな国で人は自殺するのか。それは生きる力が落ちているからだと私は考えている。日本ほど、快適、便利、安全な社会では遺伝子にスイッチが入らないのだ。

その流れにあらがうことのできるものの一つがスポーツだろう。自分で課題をつくり、その山を越えていく。成功することも、失敗することもある。取り組むものはスポーツでなくても別のものでもいい。確固たる目的や課題を持ち、そこに向かっていくとき、人は輝きを放つ。

以前、曹洞禅の本山である永平寺に行ったとき宮崎奕保(えきほ)禅師が謁見する部屋の掛け軸に目が留まった。そこには〈淵黙雷声〉と書かれていた。お釈迦さまに、弟子が「悟りとはなんでしょうか」と尋ねたときに答えられた言葉だという。深い沈黙が雷の音よりも大きい。つまり、悟りが何かとくどくど語る前に、一歩修行して前に進みなさいという意味だ。

どんな分野でもいい、何か1つ、踏み出すことが大切なのだ。人はちょっとしたきっかけで変わることができる。これこそが私が見つけつつある、最大の秘密の鍵かもしれない。

かつて私は世界の名門クラブの練習を定期的に見学し、何かを取り入れようとした。優れた手法を学ぶことは間違いではないと今も思っている。ただ、世界の誰かがやっていることをそのまま真似しても、それ以上にはなれない。

様々な経営者と話してみると、創業者は現場を見て感じて経営を行うようだ。一方、経営コンサルタントや学者は、その結果から経営理論をつくり上げる。経営者が理論ばかりを過剰に参考にして、現場をおろそかにするとき、失敗する。

サッカーも同じだと思う。人から理論を学ぶことも大切だが、それ以上に現場で私は感じたい。マンチェスターユナイテッド、バルセロナがこうしている――。それもいいだろう。ただ、私は私のやり方を貫くのみ。この姿勢で、10年6月に開幕するワールドカップに臨むつもりだ。

※すべて雑誌掲載当時

(田崎健太=構成 ジジ=撮影)