「五輪の終焉」を見据えてしゃぶり尽くすつもりか
私は、バッハの行動の背景には、遠からず来るであろう「五輪の終焉」を見据えているような気がしている。五輪カードが利用できる間に徹底的にしゃぶり尽くすということだ。
2024年のパリと、2028年のロサンゼルス、2032年のブリスベンは決まったが、開催国に名乗りを上げる国は年々少なくなっている。2004年の五輪開催には11都市が立候補したが、2024年はわずか2都市だった。
肥大化しすぎて、開催国には多額のコストがかかるのに経済効果には疑問符が付く。そのため、都市が手を上げようとしても、住民たちの反対で辞退に追い込まれるケースが相次いでいるのだ。
招致にこぎつけても、開催後には莫大な負債が残り、国民は長い年月を「借金」で苦しめられることになる。
儲かるのはIOCやアメリカの大メディアNBCだけである。オランダのように五輪招致はしないという国や都市が増えてくるはずだ。
特に今回の東京五輪は、コロナ対策に加えて無観客、観光客ゼロだから、恐ろしいほどの赤字が出ることは小学生でも分かる。
日本のケースを反面教師として、これから五輪を招致しようと考えている国々が検討すれば、到底間尺に合わないからやめようとなるはずだ。
「なんとかわいそうなオリンピックだろう」
作家の沢木耕太郎は週刊文春(5/20日号)に寄稿した「悲しき五輪」の中でこのようにいっている。
沢木はこの時点で、予定通り東京五輪が開催されても、紀元前8世紀に始まった古代オリンピックが関係者による不正や買収が横行して消滅したように、19世紀に始まった近代オリンピックも、同じような理由で滅びの道を歩んでいるのではないかと見ている。
そして、外国からの支持もなく、国内においても7割以上が開催に反対していることに、「なんとかわいそうなオリンピックだろう」と慨嘆するのである。
バッハIOC会長はNHKのインタビューで、「(東京五輪開催は=筆者注)世界の人々の希望と結束の象徴になる」と語った。だが実際は「日本人の不安と分断を象徴する五輪」になってしまっている。
かわいそうな東京五輪というしかない。パリ、ロサンゼルス、ブリスベンが決まっているが、五輪の終焉はそう遠くないかもしれない。(文中敬称略)