ノンフィクション作家の吉川ばんびさんは、心理士の助言に基づき、およそ1年前から家族との連絡を絶っている。吉川さんは「私は母親から虐待を受けていたが、心理士から指摘されるまでそのことに気づかなかった。連絡を絶つことで、生活が安定した。1人でも多くの人に、そうしたケースがあることを知ってほしい」という――。
少女
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優しい母…けれども「恐怖」そのものだった

子供時代まで記憶をさかのぼると、母親はもともと優しく笑顔がかわいらしい人で、私と、ひとつ年上の兄がまだ幼いときには食事に出た魚の骨をできるだけ抜いてくれたり、ぶどうの皮をむいてくれたり、お弁当を作ってくれるような母親だった。

母親が不在のときに腹をすかせてはかわいそうだからと、小学校1年生くらいの頃にはすでに料理を教えてくれ、ごはんの炊き方、みそ汁と卵焼き、カレーやチャーハンくらいは一通り作れるようになった。これは母親が子供の頃、共働きの両親が夜遅くに帰ってくるまで食べるものが何もなく、いつも飢えていた経験を自分の子供にはさせたくなかったからだそうで、そのおかげで私(と、私に無理やり食事を作らせていた兄)は子供時代、飢えに苦しむことはなかった。

しかし、特に幼少期の私にとって、母親の存在は「恐怖」そのものだった。母親は精神的に不安定で、感情的で、いつも余裕がなかった。父親が家庭にまったく関心のない人で、いわゆるネグレクトであったため、母親は父親の分も親の務めを果たさねばならないと自分に言い聞かせている節があり、子供への関わり方は過保護で、恐怖政治的な傾向にあった。

泣きわめくわが子を窒息死させかけた

母親は、私と兄がまだ0歳と1歳の頃、泣きわめく私たちの顔に毛布をかけ、窒息死させかけたことがある。

「一人で子育てしてると、おかしくなってくるわけ。泣き声がうるさくて、早く泣きやませないと、って思って。あ、毛布で顔を覆えばいいんだ、って。そしたら静かになって、ホッとしたんだけど。そこで冷静になって、自分のことが怖くなってさぁ。だからお父さんが帰ってくるまで、あんたたち別の部屋に隔離して、耳ふさいでずーっと泣いてたの」。

母親はこの話を度々私に聞かせたが、毎回特に深刻に話すわけではなく、悪びれる様子を感じさせるわけでもなく、まるで子供が友だちの話をするかのような無邪気ささえ感じさせた。

しかし、それほどまでに追い詰められていた母親は、私たち兄妹が言葉を覚え、自分の足で歩き、母親の思い通りにならない年頃になると、よく私たちのことを殴るようになった。

まだ4歳くらいのときだったか、コップに入った飲み物をこぼしてしまい、思い切りビンタを食らったことがある。そのときの恐怖を覚えていたせいで、5歳か6歳のときにカップ麺を汁ごと太ももにひっくり返してしまったとき、隣にいる母親に「こぼした」とバレるのが怖くて声を押し殺して体を震わせるしかできず、水ぶくれができるほどのやけどを負った。

母親の恐怖政治は、それほどまでに効果が絶大だった。しかし、私たち兄妹は成長とともにゆっくりと、確実に狂っていってしまった。