過酷な環境下の「運命共同体」

私と母親は、いわゆる共依存という関係性だった。

ドア
写真=iStock.com/ilbusca
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兄は中学生になるころから非行に走り、私と母親に対する家庭内暴力が激化した。父親は私たちの体がアザだらけになろうと血を流していようとお構い無しで、仕事を頻繁にやめては朝から晩まで酒を飲み、テレビをぼうっと見つめるだけの生活を送っていた。兄が暴れているとき、一度だけ、父親に泣きながら「助けて」と言ったことがある。しかし結局、父親は兄を「刑務所にぶちこめ」と言うだけで、直接何かしてくれることは金輪際なかった。

そんな劣悪な環境であったから、母親は私を「唯一のよりどころ」として依存し、私にとっても母親は運命共同体であり、「この世で自分を愛してくれる唯一無二の存在」となっていったのだと思う。

私はできるだけ母親を癒やしてあげたかったし、楽にしてあげたかった。過酷な環境から一緒に逃げて、なんとか救い出してあげたいとも思っていた。母親の気が済むまで愚痴を聞いて、同調して、時折私の前で「もう死にたい」と泣きじゃくる母に、寄り添ってあげたいと思っていた。

母の呪いに実家から逃げて7年以上たっても縛られている

アルバイトができる年齢になった頃、私はすでにうつ病と複雑性PTSD(家庭内殴打や児童虐待など、長期反復的なトラウマ体験の後にしばしば見られる、感情などの調整困難を伴う心的外傷後ストレス障害)を発症していて、だんだん希死念慮が強くなっていた。私も母親も、もうどうしようもないほど追い込まれてしまって、兄を殺すことまで考えていた。

このままでは、誰かが死ぬ。そう思って母親に「一緒に逃げよう」と提案しても、母親は「あんな子でも私の子だから、私が責任取らないといけないから。最後は私が責任持ってあの子のこと、道連れにするから」と言うだけで、かたくなに逃げようとはしなかった。

毎日、いつ殴られるかわからない生活に限界を迎えていた私が「もう無理、生活費は自分でなんとかするから、逃げさせてほしい」といくら頼み込んでも、母親は私をどこにも逃す気はなかった。

「あたしの方があんたよりしんどいんだから」「あんたはいいよね、一人で逃げられるんだから」「あんたが働いてお金入れてくれなかったら、生きていけないよ」と執拗に言い、出て行こうとする私をそのたび責め立てた。その呪いは絶大な効果を発揮し、就職と同時に逃げるように家を飛び出しても、それから7年以上たった今も、私を縛り付けたままでいる。