過矯正を生み出している「超近視時代」

「どうして過矯正を選んでしまう人がこれほど多いのか」。この疑問は、じつは私たちが抱く「よい目」というイメージと密接に結びついている。

パソコン、タブレット、スマートフォンなどの「デジタルデバイス」が急速に普及していることからわかるように、目とモノとの距離が、30センチ以内の「近業」をする機会が増加している。

布団に潜ってスマートフォンでゲームをする子ども
写真=iStock.com/fzant
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みなさんがこの1週間を思い出してみて、近業をしなかった日はあるだろうか。私たちは、まさに超近視時代を生きている。

にもかかわらず、どうしてわざわざ近くのモノを見ると疲労が蓄積してしまう「過矯正」のメガネをかけた(コンタクトレンズをつけた)人がこんなにも数多く存在するのだろうか。よくよく考えてみると、時代と逆行しているように感じないだろうか。

その理由の一つは、超近視時代「なのに過矯正」、ということではなく、超近視時代「だからこそ過矯正」になってしまっているという実情だ。どういうことか。

じつは、先に紹介した梶田さんの「診療所を訪れるメガネが合っていない人のうち7割以上が過矯正」という話には、ある注釈が必要だ。それは、「生活スタイルを考えると、過矯正の状態の人を含む」というもの。

つまり、かつてのライフスタイルであれば適切だったメガネの度数も、近業が増加したこの超近視時代においては、その度数が「過矯正」と同じ状況を生んでしまう、ということなのだ。

生活スタイルの劇的な変化にメガネが追いついていない

第1章で説明した通り、目とモノとの距離が近くなればなるほど、焦点は網膜の奥へとずれてしまう。ある程度、距離が離れているものを見ているならば、その度数で焦点が網膜上に来るものが、近業を行うことで目の奥に行きすぎてしまう、というように。

要するに、遠くがよく見えるメガネは、こんなに近くを見続けることのなかった時代が基準になっているのだ。

生活スタイルが劇的に変化しても、この基準がアップデートされず、多くの過矯正状態を生んでしまっているということなのだ。梶田さんは、この状況について次のような表現をしている。

「すごく過酷な時代です。これまで人類が誰も経験したことがないほどの近い距離に、長時間ピントを合わせなければいけない環境ができてしまっているのです」

梶田さんの話を聞いて、「なるほど」と思わず膝を打ったもう一つのキーワードが「視力信仰」だ。視力検査で「視力1.0」と診断されたことがある人なら、どこか誇らしい気持ちになった記憶がないだろうか。

少なくとも、私はある。かつて、中学1年生の頃、視力1.2なんて言われると「100点満点で120点」と言われたような気持ちになったのを思い出す。しかし、私たちは大事なことを見落としていたのかもしれない。

そもそも「視力」とは何だろうか。じつは視力にはいくつかの種類があるのだが、私たちが話題にする「視力」は、「遠見えんけん視力」と呼ばれるものだ。つまり、「遠くがよく見えるかどうか」という指標だ。

私たちは、近業が増えたこの超近視時代にあって、いまなお遠くがよく見えるかどうかという指標のみで、目のよし悪しを決めてしまっているのだ。