「夫は悪くない」息子を責める母親
姉弟はこの秘密を抱え、やがておとなになるが、事件の20年後、それぞれ家庭を築き子どもができて初めて、母親に秘密を明かす。
若かりし日はキューバ革命の指導者フィデル・カストロ氏の恋人で、フェミニストの左派の論客として有名だった彼女だったが、「ヴィクトール(息子)は暴力で強制されたわけじゃない。だから夫は何も悪いことなんてしなかったのよ。だいたいあの子の方が私の夫を寝取ったりして、私を騙したんだ」と言って息子に責任転嫁する。
近親姦の加害者は家庭内、地域、社会で重要な人物であることが多い。そのため、子どもが被害を打ち明けても、家族から友人や知り合いまで、団結して子どもの声を抹殺しにかかる。
日本でも、「被害者(娘)の証言に信ぴょう性がない」として父が無罪となった例がある。子どもは周囲から、時には司法からも「嘘つき」扱いされる中で、「あなたが誘ったんでしょ」という言葉を真に受けて自分を責め、孤立する。
マクロン大統領の要請で2021年1月に発足した「子どもに対する性犯罪と近親姦に関する独立審議会」の会長を務めるボビニー市裁判所判事のエドワール・デュラン氏は「まず、子どもの言葉を信じるべきです。子どもが偽証する数よりも、犯罪が裁かれず、なかったことになる数の方がずっと多いのです」と言う。
思い出すまで30年かかった:ブラジリエ事件
フランスの芸術大賞であるローマ賞を受けた著名な建築家、ジャン・マリー・ブラジリエ氏(1926-2005)の娘、マチルド(Mathilde Brasilier)さんは、2019年に出した著書『朝、夜そして近親姦』(Le Jour, la nuit, l’inceste)の中で、実父による近親姦を明らかにした。
マチルドさんは、「文化的に優れた環境で幸せな子ども時代を送っていた」と信じていたが、40歳の時、精神分析を始めたことがきっかけで突然、5歳から10歳になるまで、1歳年下の弟と一緒に父親からレイプされていたことを思い出した。季節や来ていた服、弟の泣き声まで「映画のように」鮮明によみがえったという。
建築家だった父親はアトリエに、防音工事が施され内側から鍵がかかる地下室を作り、そこで2人を5年間にわたってレイプしていた。親を信用しきっている幼い子どもに対する近親姦には、レイプ罪成立の要件である強制も、威嚇も、不意打ちも必要ない。
夫の幼児性愛、それも実子に対する性愛の傾向を知りながら問題を直視できなかった母親は、後にマチルドさんにこう明かす。
「あなたが2歳の頃だった。あの人がベッドの中であなたを抱いているのを見た。『いったいなんていうことをしているの!』と叫ぶと、あの人は『いや、ごめんごめん!』と軽く言い、照れ臭そうにしていた。私は、精液で濡れたあなたの服を洗ってあげたの。『でも大丈夫よ、心配しなくていいのよ。誰にも知られなかったから』と……」
1960年代、近親姦を訴えることなど想像もできない時代だった。何よりも大切なのは「誰にも知られない」ことであって、子どもが受けたダメージではなかった。弟は24歳で自殺した。