現代でも意味を持つ「大病の体験」

しかし、こう述べてくると、あなたの心の中には、一つの疑問が浮かぶだろう。

「この平和な時代、民主主義の社会において、
戦争は無い、また思想犯の投獄も無い。
そうした時代に、この3つの体験を持つことは、
不可能ではないか」

その通り。現代の日本において、幸い「戦争の体験」は無い。戦争など、決してするべきでは無い。また、現代の日本社会においては、「投獄の体験」もするべきではない。この民主主義社会における「投獄」とは、法律に基づく「懲役」のことであり、それは、明らかに「反倫理的」なものや「反社会的」なものだからである。

従って、この警句が教える体験で、現代において意味を持つのは、「大病の体験」であろう。現代において「結核」は、もはや「死病」ではないが、我々は、新たに「癌」という困難な病に直面している。また、それ以外にも、「不治の病」と呼ばれるものが、いくつも存在している。

しかし、この「大病の体験」も、自ら望んでするものではない。また、できるものでもない。それは、深い意味があって、ときに、天が我々に与えるものであろう。

「命は長くない」との宣告から始まった絶望の日々

実は、筆者は、38年前に、その体験を与えられた。

38年前、筆者は、医者から見放される大病を患った。医者からは「もう、命は長くない」との宣告を受けた。

医療相談室の医師と患者
写真=iStock.com/takasuu
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それは、文字通り「生死の体験」であった。

自分の命が刻々失われていく恐怖と絶望の中で、まさに「地獄」のような日々を体験した。それは、世の中で使われる「悪夢」という言葉が、なまやさしい言葉に聞こえる日々であった。それが「悪夢」ならば、鬼に追いかけられようとも、その夢から覚めれば、鬼は消えていく。しかし、この「生死の病」は、寝ている間は忘れていられるが、目が覚めれば、刻々、命が失われていく自分の姿が、現実である。何度、夜中に目を覚まし、絶望の中で、深い溜息をついたことか。

この絶望のどん底から、どのようにして戻って来ることができたかは、拙著『すべては導かれている』(小学館)に詳しく述べているが、その地獄の日々の中で、天の声に導かれたのであろう、ある禅寺との縁を得て、そこに行き、その寺の禅師から与えられた一つの言葉によって、救われたのである。