賢くて器用な外科医の父に抱いた劣等感

上田は71年に福岡市で生まれた。父親は九州大学の勤務医だった。幼稚園のとき、父親の医院開業に合わせて北九州市に一家で移った。

男の子にとって父親は最初の壁である。上田の前に立ちふさがったのは、とてつもない高い壁だった。

「九(州)大に行くような賢い人で、IQが高くて、何かを読んだらすぐに覚えてしまう。五カ国語ぐらいできるんですよ。外科(医)出身で、手先が器用」

彼は患者に寄り添う医師でもあった。深夜に患者から痛みに耐えられないと呼びだされ、上田は往診に付き添ったことがあった。鎮痛剤を打ち、これで帰れると思った。ところが父親は腰を上げない。鎮痛剤が効くのを確認してからでないと帰れないというのだ。患者のことを第一に考える男だった。

そんな父親とひき比べて上田は劣等感を抱えていた。

「小学校のとき掛け算を覚えるのがクラスで一番遅かった。サッカーやラグビーをやっていたけれど、頭抜けているわけじゃない。ドジでのろまな亀だって自分で分かっているんです。そして不器用」

強く地面に叩きつけられたのは、大学受験のときだ。父親の母校、九州大学医学部を受験したが不合格。三浪の末、近畿大学医学部に進むことになった。

「大学に入ったとき、(国立大学信仰のある)親から医者になっても認めへんって言われたんです。これは見返さないといけないって、勉強しました。一般教養の基礎医学も臨床医学も全部、成績は良かったです」

まだ世の中にはバブルの残り香があった。高級外車を乗り回す同級生の中で、上田は汗をかきながら自転車で大学に通った。そして、夏や冬の休暇期間は、研究室に入り浸っていた。珍しい学生だと呆れ気味に褒められたこともあった。

救急医療の熱病に冒された怒涛の日々

阪神淡路大震災の被災地には、大学卒業するまで通っている。ただ、卒業後は、父親のつてを頼って、九州大学に入り、心療内科に進むつもりだった。心療内科は、内科的症状を呈する神経症や心身症を治療対象とし、内科治療とともに心理療法も行う。

「心療内科では精神面からアプローチする傾向が多い。せっかく関西にいるんだから、まずは一般内科、一般外科を市中病院で勉強したらどうかと当時の(九州大学の)医局長に言われたんです。そこで、震災のとき一番頑張っていた、東灘区の東神戸病院に行くことにした」

この東神戸病院で上田は救急医療の熱病に冒されることになる。

「ものすごく熱かった。みんなで助け合うという雰囲気があった。ぼくは週5(日)、病院に泊まっていました。月曜日に5日分の下着を持って行き、週末に洗濯物を持って帰る。若いときって、失敗も成功も自分の経験になる。何事もプラスになることが分かったので、そこから遠ざかるという選択肢はなかった」

経験を積んで心療内科に進むという当初の目論見はすぐに霧散していた。

「しんどいことをやるというのは、最初は眼中になかったんですけれどね」

と上田は照れたような笑顔を見せた。

「自分は不器用だと分かっている。だから努力するんです」

処置に当たる上田敬博医師
撮影=中村治