ところが、50歳をすぎたある日、検診で肺がんが見つかりました。治療を開始したものの、病気の勢いは強く、彼は悩んだ末、ホスピス病棟で生活をすることを決意。命の終わりが迫る中、彼は初めてこれまでの人生をゆっくりと振り返り、「どんなに地位や名誉、お金を手に入れても、死んでしまったらまったく意味がない」と気づいたのです。

元気だったころ、その患者さんは、家族のことも顧みず仕事に打ち込み、「仕事ができない人間は、会社にとっていらない存在だ」と考えていたそうです。

けれども、「人生において本当に大切なのは、家族からの愛情や同僚との友情、仕事相手との信頼など、目に見えないものなのだ」「自分は今まで、家族や友人に支えられていたのだ」と気づいてからは、周囲の人への感謝の言葉を頻繁に口にするようになりました。

車椅子を押す看護師と一緒に歩く患者の家族の男性
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食事の量は減り、体力も衰えていったが…

また、お子さんには「どんなに収入が良くても、他人を不幸にする仕事には就かないでほしい」と望むようになり、銀行の仲間には、亡くなる間際まで、「人からも社会からも信用される銀行をつくってほしい」というメッセージを送り続けました。

ホスピス病棟で過ごすようになってから、徐々に患者さんの食事の量は減り、体力も衰えていきましたが、目の輝きはどんどん増していきました。

「私は嬉しいんです。大切なことに気づくことができ、それを家族や同僚に伝えることができるからです。今はこんな身体ですが、私はとても幸せです」という彼の言葉を、私は今でもよく覚えています。

それまでがむしゃらに働いてきた人が、病気やケガ、仕事上のアクシデントなどをきっかけに、「この仕事を続けていていいのだろうか」「自分の働き方は、本当に正しかったのだろうか」と思うことは少なくありません。

あるいは、「やりたい仕事ではないけれど、給料がもらえればいい」と思っていた人が、「もしあと1年で人生が終わるとしたら?」と考えたとき、自分のそれまでの仕事や働き方に疑問を持つこともあります。

元気なときや物事がうまくいっているとき、私たちはどうしても「一人称の幸せ」「目に見える幸せ」「わかりやすい幸せ」にとらわれがちです。「仕事で成功し、たくさんのお金を稼ぐこと」「人からチヤホヤされること」「おいしいものを食べて、いい家に住むこと」などを幸せだと考え、それらを追い求めてしまうのです。

一人称の幸せを卒業すれば、より大きく安定した幸せが得られる

しかし、そこで得られる幸せには限界があります。

一人称の幸せは、多くの人とわかち合うことはできませんし、お金でも地位でも名誉でも、何かを手に入れれば、必ず「失う恐怖」がつきまといます。また、一人称の幸せは、他者との奪い合いになることが多く、常に他人と競争したり、人と比べて優越感に浸ったり落ち込んだりすることになるため、心に平和が訪れることはありません。