「自分のために決められる」今が幸せ

ですが私を救ってくれたのは本を書いたことではありません。本がしてくれたのは、子供の養育権を守る上で必要なだけの、大衆からの注目を集めることです。実際的な形で私を救ってくれましたが、感情的には救ってはくれませんでした。というのもアメリカで本が出版された時、私は25歳で、外に出てまだ3年目でした。非常に弱々しかった私は、突然、人前にさらされたのです。それは私にとって非常に辛いことでしたが、もし本が成功しなければさらなる困難に陥ったと思うし、ある目標に到達するには本が必要だったんです。

書店の店先に並んださまざまな本
写真=iStock.com/Juanmonino
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私が今10年を経て幸せなのは、端的に、自分がどのような人間になりたいか、どんな人生を生きたいかが、はっきり思い描けているからだし、そう生きるための決定を下すことができるからです。シンプルなことのように聞こえますが、このシンプルさは、以前の自分には想像もできないものでした。なぜならば、ひとつひとつの決定を「自分のため」に下し、自分がどんな人間で、何を望むかなんて、思い描く機会を持ったことがなかったから。この過程が本当に大変でした。でも苦しみを経験することが変化をもたらし、それが自分を幸福に導いてくれるのです。

「個人」になるまでには時間がかかった

——デボラさんが目指した幸福とはどんなものでしょうか。

それがコミュニティを出た当時の問題でした。自分が生きてきたところには「どのような個人になればよいのか」という事例が存在しなかったから。「個人であること」というのは、コミュニティでは「大きな敵であり脅威」ですから。

そのためには、まずは「個人とはなにか」「パーソナリティとはどうやって形成されるのか」という概念を把握しなければなりませんが、それは一晩でどうにかなるものではありません。多くの人に会い、多くを吸収することで、構築されるものだからです。

多くの作業と奮闘、問題との対峙、そして時間がかかりました。今の私は、おそらく人間として、適切な興味深い特性を持てていると思いますが、そうした要素の根本には息子との体験がものすごくあると思います。単なる外面的なことのみならず、内面的においても。