「自分は被害者」という考えをやめる

——新刊で印象的なのは、自分の弱さをさらけ出して同情を買うことはせず、抽象的な問いを重ねる方向で構成していることでした。

【山口】ありがとうございます。実は書き始めたときには、結婚していない自分を、「『ふつう』を求める社会の圧力の被害者」として描こうと考えていたんです。

ただ本を書き進める過程で、「何の目的であれ、結婚することも、結婚しないことも、それぞれの人が戦って勝ち取ったもの。結婚を選んだみんなはいまも結婚生活を送りながら、家族という形を守るために戦っているのではないか」と考えるようになり、自分を被害者として描く視点に違和感が出てきました。

郊外の一戸建てに住んで旦那さんとお子さんのいる「模範的」な家族を築いた人も、それで人生の目的がすべて満たされているわけではなく、夫婦や親子という逃れられない関係を背負いながら、いまも日々戦っているのではないか。

子供と一緒に家で働く母親
写真=iStock.com/kohei_hara
※写真はイメージです

そう気づくことで、私は同時に「自分がこれまでやってきた生き方は、ずるかったのかもしれない」とも感じました。スタンダードな家族の形から距離を置いて、「自分は被害者」と考えている。それは実は、結婚して誠実に日々を営んでいる人たちが築いてきた「ふつう」という価値観を自分自身も前提にしているのではないか、と。そこに乗っかっているという意味では、フリーライドしているわけです。

「ふつうの家族」なんて存在しない

そもそも「ふつうの家族」とは何でしょうか。突き詰めれば、そんなものは存在していないんです。家族はみな一つひとつ違っていますから。それぞれの家族はそれぞれが置かれた状況の下で「家族という戦い」を全うしているのだと思います。

小倉さんが指摘したような、生存のために結婚することも、階級上昇のために結婚することも、すべては聖なる「家族という戦い」です。それを口先で批判するより、見事にやってのけた人をリスペクトすべきだろう、と。私はそう考えて、「家族という戦いを戦っている人たちすべてに、エールを送りたい」と思い直して、この本を書くことにしたのです。

本のまえがきに入れた「『家族の話が書きたい』と出版社に言ったら、『家族を築きあげたことがない人に、家族を書くことはできない』と断られた」というエピソードがあります。そう言われたとき傷ついたのはリアルな事実ですが、一方で「きた、きた」とも思っていたんです。傷ついた経験は、世の多数派から迫害された「被害者」という立場を、私に与えてくれますから。「被害者」という立場から本を書けば、批判されにくいな、と。

でも本を書き進める過程で、なんか違うな、と。「ふつう」という規範を作り上げた世間があって、私はその「被害者」だという話をしたいわけではないと気づきました。生存、依存さまざまな結婚を全うする人がいるなかで、「自分は被害者」という私の自己憐憫は、甘っちょろいのではないか。

そこで「自分は被害者」という主観から入っていくのはやめて、「家族という戦いを戦っている人たちすべてに、エールを送ろう」という視点から書き直していきました。