「産めないのか」のヤジ議員と同じ意識を持っていた

——「私の自己憐憫は甘っちょろい」と自身を突き放せるのはすごいですね。山口さんはなぜそう考えるようになったのですか。

【山口】司法修習生のとき、仲の良い女の子がいて、2人で「2人とも不幸だね」という話をよくしていたんです。その子があるとき「でも私たちの不幸って、甘い蜜の味がするよね」と言い出して、「たしかにそうだな」と。

「結婚できないのは高学歴の女性と低学歴の男性」というデータがあります。私たちは高学歴の女性に相当するので、たしかに結婚が難しいかもしれない。でもそれは自分で選んだ道なので、「結婚相手がいない」と嘆いても、それは自分の責任。私たちは生存のために結婚する必要にも迫られていない。そう考えると「私たちの不幸は甘い」という結論になるわけです。

自分で選んでそうしているのだから、「子どもを産まない私に社会の目がきびしくてつらい」なんて泣き言を言うべきじゃない、ということですね。本にも書きましたが、私は不妊治療クリニックで検査を受け、「卵巣年齢50歳」と告げられて、帰り道で泣いてしまうぐらいショックを受けました。それは「自分は女として欠落している」と感じたからです。

公園の端っこで蹲って泣く女性
写真=iStock.com/Yue_
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でも冷静になって思い返すと、そんなふうに感じたのは、「子どもを生むことが女の価値である」という価値観が自分にあったからです。2014年、東京都議会で、子育て支援について質問した女性議員に、男性議員が「産めないのか」とヤジを飛ばしたことが問題になりました。当時は「醜悪だな」と思っていたけれども、実は私の中にも同じ醜悪な意識があったんです。

誰かに嫌悪感を抱く場合、多くは自分の中に相手と同じ感情が潜んでいるのではないでしょうか。それを事実として認め、向き合っていかないと、前に進めないと思いました。

自己憐憫のただ中にいたとき、私は頭の中で悲劇のヒロインになっていたんですね。でも「結婚できないかわいそうな自分」というステレオタイプに、どんどんまっていくのは嫌だと思いました。誰のなかにも複雑な要素があるのに、ステレオタイプにはめていくと、自らを薄っぺらくしてしまう。だから、そこから一歩外に出たいと願ったんです。外に出たら、自己憐憫に浸っている自分の醜悪さと向き合わなければならない。それはつらいことだけれども、前に進みたいのなら自己憐憫は捨てなければいけません。

「ふつうの家族」と「そうでない家族」の対立

——たとえば社会学者の上野千鶴子さんは「非婚の女性がコミュニティをつくって、それぞれの立場を尊重して暮らす」というライフスタイルを提唱されています。一方で、「ああいう生き方は、社会的立場のある上野さんのような人たちにしかできない」と批判を受けました。

【山口】「ふつう」の結婚生活を送っている女性たちと、フェミニストとしてシングルで生きている女性たちの間で、戦いのようになってしまっていますね。

アメリカ社会の姿を見ていると、日本もやがて「女性が独立して自由に生きるのはすばらしいこと。それを理解しようとしない人間は吊し上げられて当然」となっていくのだろうと思います。

ただ、その分断をあおるのが望ましいことだとは、私は思いません。