戦後の日韓関係は「同床異夢」から出発した
現在の日韓関係は、1965年に日本と韓国が外交関係を回復してから最悪と言われるほどに悪化している。特に2018年の秋に、それまでなにがしかの希望が残っていたとしても、それを完全にぶち壊すような事態が発生した。
まず徴用工問題について、韓国大法院(最高裁)大法廷は、10月30日新日鉄住金(現日本製鉄)に対して、次いで11月29日三菱重工に対して確定判決を下した。この判決は、2012年韓国大法院小法廷が出した徴用工原告勝訴と同じ考え方を、大法廷判決によって確定させたものだった。
この確定判決の考え方を、筆者はまったく認めることはできなかった。
1965年の諸協定では、親協定たる日韓基本関係条約で「植民地支配の不法・不当性」についての日韓の意見の根本的対立を、1910年の併合条約は“already null and void”とし、日本語では「もはや無効」、韓国語では「イミ無効(ハングルで『すでに無効』)」と訳すという妥協によって乗り越えていた。韓国側は併合条約締結時からそれが無効だと解釈し、日本側は1965年の日韓基本条約締結時から併合条約が無効であると解釈するという「同床異夢」をお互いに承知の上で、戦後の日韓関係が出発していたのである。
徴用工問題、慰安婦問題と続いた韓国からの難題
徴用工に対する支払いについては、1965年諸協定の一つとして締結された「請求権・経済協力協定」に基づき日本政府が支払った金の明示的な内数として取り上げられ、しかるが故に「完全かつ最終的な解決」を見た旨、合意されていた。
にもかかわらずこの韓国最高裁判決は、「請求権協定は日本の植民地賠償を請求するための協定ではなく、……(中略)……日本政府と軍隊等の日本国家権力が関与した反人道的不法行為については請求権協定で解決されたとみることはできない」としてこれが解決済みであることを否定してきたのである。
その次の衝撃は、慰安婦問題からやってきた。
この問題は、1991年8月に最初の慰安婦が実名登場して以来、今や30年を経過している。日本政府は、1990年代における河野談話(1993年)とアジア女性基金の活動(1995~2007年)によって、当時、慰安婦対象国として話し合いを行った関係国との間で和解を図ろうとした。フィリピンやオランダ他とは大略の和解が成立している。
しかし問題を提起した韓国とは、「挺身隊問題対策協議会(挺対協)」の運動によって「法的責任を認め、法的賠償を支払う」ことが要求された結果、被害者大多数と和解することができなかった。