学校は「世間」の象徴だと思うのです。日本に生きる以上、「世間」という目に見えない、宗教以上の大きなものに適応していかないといけない。学校に行けたということは世間に適応する第一歩。学校に行くべきというのは、「世間からこぼれ落ちるな」ということなんじゃないかと思います。

「世間」とは、「ふつう」であることの代表です。今やフリーターは、その「ふつう」の中に入っていますよね。一方、親の考える「ふつう」は「いい大学を出て、年収500万円くらいの仕事について暮らす」ことです。子どもを「ふつう」にするために、無理矢理学校に行かせ、受験勉強をさせる親もたくさんいます。

子どもを「ふつう」に、という呪縛

受験は時として残酷です。子どもが学校や塾と違った価値観をもっていると、親が不安になってしまって、子どもの価値観や好きなことを無意識につぶしてしまうからです。受験して合格したけれど、学校も勉強もトラウマになり、うつ病になってしまう子だっているのです。子どもが精神的に殺されてしまうことがある。精神的、肉体的な苦痛を与えて勉強させることを「教育虐待」とよびます。

学校に行けなくなった子どもは、世間からこぼれ落ちたと感じて、世界のどこにも居場所がないと苦しんでいます。学校でないところでも生きていけるという社会になってほしいですし、そのためには大人に「ふつう」を突破する力を持ってほしいと思っています。「ふつう」の形は、常に変化にさらされているのですから。

「別の世界がある」と言っても耳に入らない

「学校か死か」というところまで追いつめられてしまっている子に「別の世界があるよ」と言っても、耳に入りません。そういうときは、生活している家と学校という環境からいったん離れるといいと思います。

自分を批判しないで見てくれる場所をひとつ、もてるといいですよね。その場所は、カウンセリングでもいいかもしれません。自分だけで抱えこむ必要はないんです。相談できる人がほしいと思うのは当たり前のことですし、カウンセラーなどの専門家に「頼る」ことは恥ずかしいどころか、賢い判断です。