「規則を守ること」よりも「目的達成」
ワクチン接種プロジェクトが進むにつれ、不具合も出てきた。特にファイザー社製のワクチンは-80℃で保存しなければならず、いったん解凍すると使用期限がある。そのため廃棄処分になりそうな余剰がある場合は、予約なしで来た人や付き添いの若い人にも接種したり、夕方になってから近隣住民に接種会場に来ることを呼び掛けるという事例が自然発生した。
もともとイスラエルではいろいろなことがスムーズにいかないし、刻々と変わる状況に応じて対応も迅速に変えなければならないことが多い。そういう時は、上司の判断を待たず、現場の人間が臨機応変に対応するのが当然になっている。
「きっちり規則を守るよりも、到達すべき目的をかなえるのが先だ」という合理性が共有されているのだ。そして100%完璧でなくても8割がた目的が達成されればそれでいいのである。この価値観は現場運営に携わる人だけでなく、今回の場合は接種を受ける側にも広く共有されているため、マニュアルから多少はずれてもおおむね物事はうまく進行する。それでもトラブルがあった時のため、接種会場には案内係兼保安要員が配置されているが、彼らもその種の仕事に慣れている。
健康情報はデジタルで一元管理
また、個人の健康情報が一元管理されているので、医師によるていねいな問診は必要ない。コンピュータ画面にすべての情報が表示されるので、筆記用具や紙を使わなくてすむ。
イスラエルでは、健康情報にかぎらずあらゆる情報がIDナンバーで管理されているが、人々は「そういうものだ」と思っているので、特にそれが問題になることはない。
これについてはひと言解説を付け加えたい。イスラエルの人たちは、国に個人情報の一括管理を許す一方で、個人の権利の遵守、個人の思想の尊重もまたきわめて重要視している。子どもたちは「あなたが本当にそう思うのであれば、たとえ家族が、世界中の人々が、神がちがうと言っても、自分が心から納得するまでは絶対に自分の考えを変えてはならない」と言われて育つ。
その一方で、「個人の安全、自由、生存は共同体あってのことだ」ということも身に染みて理解している。ワクチン接種をするかしないかの判断はあくまで個人の自由だが、共同体の存続に必要なのであれば、多少の負担は当然だと考える人は多い。イスラエルにおける徴兵制度(*)も、このような考え方を背景として運営されている。
接種済みを証明する「グリーンパスポート」
「さまざまな特典が与えられる」としてワクチン接種開始時には大々的に広報されていた接種済み証明の「グリーンパスポート」だが、感染力の強い変異株が予想以上に拡大していることが影響し、今のところ濃厚接触時及び海外からの帰国時の隔離免除だけが特典とされている。
だが最近の報道によると、夏の旅行シーズンを視野に入れて、接種済みの人はギリシャなどの国と制限なく往来できるようになるらしい。また接種済みの人だけが、多くの人と接触する職場に出勤したり、文化施設に入ったりできるという案も検討されている。ただこのような区別を設けるのであれば、罹患回復証明と健康上の理由で接種できない人の72時間以内のPCR陰性証明も同時に導入すべきだという議論もある。
高齢者などのリスクグループへの接種は概ね終わったが、今後は「自分は重症化しない」と思い込んでいる若年層、また、どれほど広報を重ねてもワクチンへの忌避感が強いユダヤ教超正統派やアラブ人への接種の促しが課題になるだろう。
さらに、イスラエルの人口の3割は16歳未満なので、集団免疫の獲得には12歳以上を接種対象にしていく案も検討されているらしい。
もう少し時間が経つとワクチンの効果についていろいろな事が明らかになってくるだろうが、イスラエルにおけるワクチン接種データが、今後の新型コロナ対策の参考になってほしいと強く思う。移動、集会、文化的な活動への参加の自由がある社会が、一日もはやく回復されることを願ってやまない。
*イスラエル国民は、ユダヤ教超正統派やアラブ人以外は、高校卒業後18歳から男子は3年、女子は約2年の兵役義務があり、その後も予備役がある。