「妻が生きた証しと意味を残したい」と献体を思いついた

やがて瀬戸さんは、「妻が生きた証しと意味を残したい」と検体することを思いついた。だが、さっそく最寄りの最寄りの大学病院に相談したが、本人の意志が確認できないため、断られてしまう。

次に相談したのは「NCNPブレインバンク」(国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター内)だった。これは、献体のように身体全体を提供するのではなく、研究対象となる脳組織だけを提供して研究に活かしてもらうものだ。

ハンチントン病も研究対象となっていたため、瀬戸さんは妻と相談し、登録。ただ、提供実績がまだ少なく、死後の組織摘出と保管施設までの搬送手続きを担当医に相談したが、確実に対応してもらえるという確約は得られず、院内会議の議題に上がり、議論が交わされることになった。

2020年9月12日、妻の容体が急変「不思議と落ち着いていた」

2020年4月、新型コロナによる緊急事態宣言が発出されるまでは、瀬戸さんは妻と月1回は買い物や観光地に出かけていた。

8月、亡くなった息子のお盆の迎え火や送り火、お墓参りは毎年欠かさなかった。

例年9月には、胃ろうに使用している器具の交換を兼ねて、2週間ほど定期入院をしている。

妻の入院中は、病室にラジオを持ち込み、2人でイヤホンを分け合って、地元AMの「GO!GO!ワイド」や、FMの「耳が恋した!」といった番組を聞いた。面会時間が終わると、妻は病室で、瀬戸さんは帰りの車で続きを聞いた。

アナログラジオ
写真=iStock.com/123ducu
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入院は14日までの予定だったが、11日に早まって喜んでいたところ、10日の朝に主治医から「昨晩から39度を超える発熱が始まったので、抗生物質の投与を開始した」と電話があり、退院は延期に。

瀬戸さんは、妻がいつ帰ってきてもいいように、部屋の隅々まで掃除し、ベッドのシーツも洗濯して、新しいものに取り替えていた。

10日の午後に病院へ行ったが、安静中のため面会ができず、「解熱方向ではあるので、問題が起きなければ、当初の予定通り14日退院で考えている」という説明を受け、そのまま帰宅。

ところが12日の夕方、妻の容体が急変。「今から蘇生処置を行う」という連絡を受けた。その時、瀬戸さんは不思議と落ち着いていたという。すぐに病院に向かったが、緊急措置のかいなく、妻は帰らぬ人となった。40歳だった。

「駆けつけたとき、彼女は拘束具が外された状態でした。私は彼女の手首をさすりながら『外れても動かなくなって良かったね』と声をかけました。その後、病理解剖などの手続きを行ってから帰宅したのですが、今は解剖結果が届いていないため、彼女はまだ入院しているだけのような感覚が抜けません。おそらくブレインバンクとの兼ね合いで遅れているのだと思いますが、結果が届いたら、彼女の死の全てを受け入れられるような気がします」

10月31日。妻の50日祭(神式。仏式で言う四十九日)が行われた。

瀬戸さんは、なぜここまで妻に寄り添い続けられたのだろうか。

「私は常に、『立場が逆だったら』を考えて行動していました。もしも私が病気だったら、妻が病気を理由にして、私の元から去っていくのは最も恐ろしいことです。だから私は、私を心配する人々が提案してくれた『妻の元を離れる』という選択肢を真っ先に消すことができました。認知度の低い病気だったため、周囲の人に理解されないもどかしさや、日ごと確実に進行する病状に、私の気持ちが追いつかず、鬱になってしまったこともありましたが、私のようにならないためには、説明しなくてもわかってくれる、先回りしてアドバイスしてくれる存在が必要だと思います」

瀬戸さんは、『日本ハンチントン病ネットワーク』に参加し、ハンチントン病の患者や家族を支える活動を開始。

「患者本人と付き添う者が、やりたいことやしてあげたいこと、これから起こりそうなことや気持ちを、紙に書き出しながら擦り合わせると、意外な解決法を見つけることができます。その書き出した物は、病状が進行する度に見直して、『現在はどう思うか』を書き足しながら軌道修正を行うと、お互いが大きく道を違えることが無いのではないかと思います」

11月初旬、瀬戸さんは妻の大好きだったスイカのミニチュアを購入し、妻と息子の仏壇に飾った。

「彼女と過ごした約15年、介護を前提に生活リズムを作ってきたため、急に自由になっても、何をしたらよいのかわかりません。しばらくは、これまで以上に彼女のために時間を使おうと思います」

高齢者の介護も十分とは言えないが、若年層や中年層の介護については、高齢者の介護以上に公的なケアやサポート、情報が不足している。そのうえ、妻は症例が少なく、認知度の低い難病。瀬戸さんの苦労は計り知れない。

シングルケアラーは、周囲の人が介護に理解や関心がないために孤立するケースが少なくないが、瀬戸さんのケースは自身で努力や工夫もしたが、両親の理解もあり、深刻な孤立もなく介護をやり遂げられた好例だと言える。

何よりも、被介護者と介護者が、被介護者自身のゴール(最期)について話し合うところからスタート(入籍時)しているのが印象的だ。誰もができることではないが、被介護者と介護者がタブーなく「死(ゴール)」について話し合うことが、よりよい「生(介護)」につながるのは間違いないだろう。

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