2つのシナリオがある脱ガラパゴス戦略
ガラパゴスだからこそ育つ種を、世界に適応可能な種に変えていく、成長させていく手段を考えることが、ガラパゴス化を嘆くよりも大切である。
それを「脱」ガラパゴス戦略と名付けるとすれば、それは決して、ガラパゴスを捨てることでも、全面的な転換でもない。脱ガラパゴス戦略には、2つのシナリオがありそうだ。
一つは、「ガラパゴスの輸出」である。ガラパゴスゾウガメは、自分では他の陸地に行けないから、自分で種を広げる手段をもたなかった。しかし、日本企業の得意製品は、他の土地へと広がる手段を多様にもっている。しかも、決して他の島々では「来永劫も自然環境の違いゆえに」生きていけない生物種ではない。たしかに今はまだ需要が顕在化している量は大きくないが、将来の新興国市場の需要の先駆けの側面をもった「種」が案外ありそうだ。もしそうなら、将来をにらんだ。そして将来の種の多少の変種の登場をにらんだ。ガラパゴスの輸出があってもいいはずである。そして、「先駆け的地位」をさらに強化するために、これからもガラパゴス的特異進化を、し続けることが選択肢の一つなのである。ガラパゴスで何が悪い、と開き直るようなものである。
もう一つのシナリオは、「ガラパゴスの本卦がえり」である。かりに日本の工業製品がガラパゴス的進化をしてきたとしても、その歴史は何万年単位ではなく、たかだか数十年単位である。その歴史の行程をほんの少し遡り、現在の日本企業がほんの数十年前にやっていたはずのことを自ら外国で実行し、現在の日本と過去の日本のハイブリッドを実現することができれば、それは日本以外の国での市場の状況に適応したことになるものがありそうである。歴史の歯車の動きとして、現在という時点から抜け出して過去に遡る、という意味で現在のガラパゴスを抜け出すのである。
私は、「そうした需要がありそうだ」という言葉を使っている。その種の需要が巨大にある、あるいは新興国市場の大半がそういう需要になる、とは言っていない。そこにポイントがある。日本の産業が新興国市場の需要の大半を取る必要など、もとより存在しないし、実現可能でもない。日本列島で働く人々の雇用が守られ、生活が発展していくために必要な量だけ、そうした需要が世界のあちこちに(新興国だけでなくても)あればいいのである。
こうした多少楽観的に見える展望を語ると必ず、「その日本が得意な分野には、いずれ東アジアの国々が追いついてくる」という反論がある。ガラパゴスゾウガメが他の島に行けても、その島に合った種に変わろうとすると、むしろ別な島からのカメが優勢になって淘汰される、とでもたとえようか。
それは、安易な変種づくりに安心してしまうから、いずれ生きていけなくなってしまうのではないか。
時計という産業を考えてみるといい。時計の電子化を世界に先駆けて行ったのは日本の企業である。その結果、スイスの時計産業は窮地に追い込まれた。しかし、スイスはガラパゴスで何が悪い、と開き直ったようにも見える。時計をさらに特異に進化させて、工芸品として位置づけられるものをかなりの規模で作り始めた。「時間の計測機械」と位置づけなかったのである。その結果、世界の時計市場の中の高級なセグメントはスイスの独壇場なのである。まさに、ガラパゴスの輸出である。そして、単純な電子化をして工業製品としての時計を大量に作った日本の企業は、東アジアでの時計生産に追いつかれて、窮地に追い込まれているのである。
ガラパゴスは太平洋の東の端にある群島で、日本列島は太平洋の西の端にある。しかも、日本列島はアジア大陸からそれほど離れておらず、文化の交流の歴史も濃い。それがあったからこそ、日本が成立し、発展してきた。しかも、ガラパゴスと違って日本列島の自然環境は豊かで、それが嗜好も経済水準も、1億人を超える人々の生活をつくってきた。
太平洋の東の端で起きた現象が、西の端でも起きると思う必然性はない。文明の生態史観を唱えた梅棹忠夫さんは、ユーラシア大陸の東西の両端の温暖な地域でヨーロッパ文明と日本文明が発達した、と大きなスケールで考えた。経済の生態史観を、われわれも考えるべきか。