押印のために出社する本末転倒な人々

押印はわが国の文化の象徴だ。文化とは、人々の生き方を意味する。思い浮かべてみると、わが国では個人の日常生活からビジネス、行政など多くの場面で“ハンコ”を所定の紙に押すことによって、確認、合意、承認などの意思が表明されてきた。学校や所属組織から表彰状を受け取った時、朱肉で押された印章を見て到達感を味わう人も多いだろう。

特に、企業や公官庁などの組織においては、押印なくして合意や確認は成立しなかった。その期間が長く続いた結果、多くの人が押印の必要性や負担に疑いを持たず、当たり前のこととして扱ってきた。具体的な例を確認すると、わたしたちの生活に押印が深く浸透したことがわかる。

日本の印鑑
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良い例が、宅配便の受け取りだ。少し前まで、届いた荷物を受け取る際、伝票に印刷された丸印にスタンプ式の印鑑や三文判を押すことが当たり前だった。それを見直すきっかけの1つとなったのが、アマゾンをはじめとするEC(電子商取引)の増加だ。

それによって再配達などの負担が増加し、配送業者は需要の高まりに対応しきれなくなった。配送業者が需要に対応するために玄関先や宅配ボックスへの“置き配”を導入するまで、押印が重要という“常識”を人々が見直し、それがなくても問題がないことに気づくことは難しかったように思う。

組織の場合、押印の文化が人々に与える影響はさらに大きい。例えば、上司に提出する書類に押印する際は、印鑑を左に傾け(お辞儀しているように見える)、かつ上司の押印箇所よりも下に押印するのが社会人のマナーと指導された経験をお持ちの方は多いだろう。

金融機関で債券などのトレーディング業務に従事していたある知人は、「一定金額以上のポジション(持ち高)を売却する際、担当者を起案者にチームリーダー、課長、部長、担当役員が稟議書に押印しなければならない。承認を得るのにかなりの時間がかかる。結果的に売却のタイミングを逃したこともある」と話す。

コロナ禍でテレワークが推奨されている中、書類への押印のために出社した人も多い。いずれも本末転倒だ。

「他部門も押印しているから、自分に責任はない」

わが国の企業にとって押印は合意形成に欠かせない。事業計画書などに押印することは、関係者が“合意”したことを示す。関係者の合意が得られたうえで計画は実行に移る。押印は企業の意思決定に影響する。

稟議書には担当部門の業務と関係のない役員などが確認の意味で押印する欄が設けられていることが多い。問題は、合意形成に関わる人数が増えると、誰に責任があるかがわからなくなることだ。つまり、合意はするが、誰も責任を取ろうとしない。それが押印を通した合意形成の盲点だ。

責任の所在が曖昧になると、当事者意識をもって事業に臨むことは難しい。その結果、不祥事の発生や不適切な取引など想定外の展開に直面すると、合意形成に関与した人々の間に、「他部門も押印しているから、自分に責任はない」との意識が広がる。

計画を立案した部署でも「複数の部署が合意した計画だから責任は会社にある」と都合の良い解釈が先行する。ある経営の専門家は、押印文化は不祥事などが発生した際の企業の対応力に無視できない影響を与えると指摘する。