「過剰対応」で社会はディストピア化した

日本では、ウイルスそのものの被害以上に、過剰対応による被害が重なってしまいました。私は、現場を見てそのことに気づき最初から一つずつ情報を発信していました。患者さんには適切な情報をお渡ししつづけました。事業継続の心が折れそうな人を支え、マスクやアルコールが足りない人には、クリニックの在庫管理を徹底することでお渡しし不安解消に努めました。

街角にPCRステーションが置かれて検疫したり、外出する人やマスクをしていない人を警察が取り締まったりするべきと主張する人まで出現しました。致死性が高くない感冒ウイルス一種で恐怖が惹起され、それを契機とした相互監視と自由剥奪のディストピア化の様相でした。

2月から不安をあおるメディア出演を断りつつブログに綴るぐらいしかできませんでした。冷たい黒い濁流のなかに取り残された小さな島から閃光弾を打ち上げるような気持ちの毎日でした。閃光弾を見て、島にたどり着いた人もいました。日々新たに作り出される恐怖の濁流にのまれてしまい失職された方もいました。

終息とは「駆逐」や「封じ込め」ではない

その中でも私の意見が正しいと判断し、放送してくださったラジオ局(※13)やこのプレジデントオンラインのように正しい情報発信を目指し多様性の場を作ろうとするメディアも存在しました。また、丁寧な取材をしてメディアの大合唱とはかけ離れている現状を、救急外来が閑散としていることを通して既に4月に伝えていたジャーナリストさんもいらっしゃいました(※14)

私は、人々と一緒に小さな島で凍えていたところに、毛布や食糧輸送物資が届いたように感じました。そういった出来事がやってきて私は、世の中にまだ多様性が残されていたことに気づき喜びました。

「「指定感染症」の呪縛から新型コロナを解放せよ 漫然とつづく「無症状者の入院・隔離」措置が、国民と医療現場を疲弊している」(※15)や「国民全員のワクチン確保へ 政府のコロナ対策判明」(※16)という報道にホッとしています。

ウイルスが弱毒化したような報道もありますが、最初から日本やアジア諸国ではホストの免疫力があったために相対的に弱毒ウイルスだったものにもかかわらず、これだけ騒いでいたというのがファクトです。プレジデントオンラインで英文アブストラクトを添付し「日本は日本のコロナを考えよう」と6月に考察した内容(※17)が、その後Nature誌で7月に理論が追試され指摘されるようになりました(※18)(※19)。逆境の中でのプレジデントさんの英断と胆力に感謝しています。

ここまでくれば、ウイルス感染症の終息は、誰かが行う国土からの駆逐や封じ込めではありません。私たち自身が、「そういうものか」と思ってしまえば社会的に終わってしまうものです。

まだまだ、こういった考えは少数意見かもしれません。継続する努力や工夫が必要です。けれども、絶望的な暗闇から小さな星が一つずつ集まって流れになってきているように感じます。ファクトに基づいて医療的側面から折れそうになっている人々の心を支え、頑張る人々を応援していきたいと思っています。

未来は私たち自身が紡いでいくものです。