人体構造を無視して描かれた「ヴィーナスの誕生」

ギリシャ・ローマ神話のなかで、もっとも多くの画家の主題となったのが美と愛の女神ヴィーナス(ローマ名ウェヌスの英語読み)です。この女神の出自ははっきりしていませんが、一説にはクロノスに切り落とされたウラノスの男性器が海に落ちた際、流れ出た精液に集まった泡から生まれたともいわれています。そのため、ギリシャ神話でのヴィーナスの名前は、ギリシャ語で「泡(アプロス)」を語源とするアフロディーテです。

ヴィーナスを描いた絵画で最も有名なのは、15世紀イタリアの画家ボッティチェッリの〈ヴィーナスの誕生〉でしょう。この絵のなかで女神は、右手で胸を隠し、左手で下腹部を隠す、古代ギリシャで「恥じらいのポーズ(プディカ)」と呼ばれる姿勢をとっています。ただ、よく見るとボッティチェッリの描いたヴィーナスのように実際に立つのは難しいことがわかります。現実の人体構造を無視して、画家にとっての理想美を描いたのです。

サンドロ・ボッティチェッリ〈ヴィーナスの誕生〉1484~86年/ウフィツィ美術館 フィレンツェ/右手で胸を隠し左手で下腹部を隠す「恥じらいのポーズ」は古代ギリシャから伝わるもの
サンドロ・ボッティチェッリ〈ヴィーナスの誕生〉1484~86年(ウフィツィ美術館 フィレンツェ):右手で胸を隠し左手で下腹部を隠す「恥じらいのポーズ」は古代ギリシャから伝わるもの。

いっぽう、19世紀フランスの画家ブグローの〈ヴィーナスの誕生〉は、女神は片足を曲げ、腰をS字にくねらせて重心をとる「コントラポスト」という立ち方をしています。こちらは現実に可能なもので、実際にモデルを使って描かれています。

ところで、キリスト教的なモラルが強かった時代は女性の裸を描くことはタブーでした。しかし、ルネサンス期以降、神話の神々なら裸も許されるようになります。このとき、美しく官能的な女神ヴィーナスは恰好の主題として画家たちに好まれたのです。

「黒死病」から身を守るために祈りを捧げられた絵

14世紀にヨーロッパで大流行したペストは、当時のヨーロッパの人口の3分の1弱を死に至らしめるほど猛威を振るった疫病です。この病気を発症すると、高熱が出て皮下出血を起こし、全身が黒紫色の斑点に覆われ、亡くなってしまいます。その症状から、「黒死病」とも呼ばれました。

医学が発達していなかった当時、この病気の原因は不明で、一度かかってしまえば逃れる術はありませんでした。そこで、人々はペストを「神が神罰として無作為に放った矢」だと考え、その矢から身を守るためにペストに対抗する守護聖人に祈りを捧げます。