「星野さんに何も恩返しができなかった」
佐藤が第二の人生に選んだのは、地盤測量、改良を行う会社「トラバース」の会社員だった。父親が創業者だが、彼は新入社員と同様に、住宅メーカーや建築現場に足を運び、営業回りをした。仕事が終わって毎日2時間は測量、地盤関係の勉強の時間を作った。測量士補、二級土木施工管理技士の資格を取得した。
そんなとき星野の野球殿堂入りが決まった。平成29年1月だった。その年の11月に祝賀会が行われたが、来客も多く、佐藤は挨拶ができなかった。言葉をかけられぬまま、いつかはと思っている矢先、星野は翌30年の年明け早々に亡くなった。70歳だった。
「何も恩返しができないまま星野さんはいなくなってしまった」
「もし落球する運命でももう一度五輪に出たい」
現在佐藤はトラバースの千葉営業所の所長を務めている。部下も60人ほどいる。管理職として、常に彼の念頭にあるのは星野の姿だ。
それが星野イズムかどうかはわからないが、部下が失敗したら、なぜ失敗したのかを考えさせて、答えを出すまで待つ。そして次にどうすべきか考えてもらい、もう一度チャンスを与えることにしている。そのときは自分が積極的に背中を押すようにしている。
取材の最後に、もう一度五輪に行きたいか、と尋ねた。
佐藤はいっとき思案していたが、はっきりと言った。
「もう一回オリンピックに出て金メダルを獲り返してやりたいです。もし、また最後に落球する運命だったとしても自分は行きます。あのことで自分は人の苦しみ、痛みがわかったので、いい経験をしたなと思うんです。世の中には苦しんでいる人がいっぱいいますから」
平成30年、佐藤は合格率15パーセントという宅地建物取引士の国家試験に一度の受験で合格した。彼の会社員としてのペナントレースはまだ前半戦である。