「これではもうどうしようもない。人生をなんとかしたい」
そう思いつめたときに、刑務所の中で、聖書に出会いました。
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」
まさに、当時の私のためにあるかのようなフレーズが書いてあったのです。このフレーズに感銘を受けた私は、刑務所の中で聖書を熟読し、3度目の服役を終えてからすぐ、洗礼を受けました。
「牧師になろう!」と思って神学校に通い出したのは2004年5月のことです。
私が通っていたのは、夜学の神学校でした。昼間は働き、夜に神学校に通う生活で、毎日くたくただったのですが、このときはすでに、「自分のような、刑務所から出てきたヤツを救おう。ヤクザだったヤツを立ち直らせるために牧師になろう」という、明確なビジョンがありました。そのためなら、眠い目をこすりながら勉強することができました。
神学生時代には忘れられない、私の原点とも呼べるような思い出があります。とある町工場で働いていたのですが、刺青を隠さないといけないので、真夏でも常に長そでのシャツを着ていました。ところがその日は、汗で塩をふくくらいの猛暑日でした。それでさっぱりしたくて昼休みに着替えていたら、タイミング悪く社長に刺青を見られてしまったんです。
「またクビか……」
そう思った瞬間、社長は
「そうか。だからお前、頑張ってるんだな」
ポツリと言ってくれたんです。「社長が私を見てくれていた」ことがわかるこの一言に、大変救われた気持ちになりました。「誰かに見守られている」ことの心強さが身に沁みると同時に、自分もまたその「誰か」になりたい、という思いを強くしたのです。
一縷の望みを託して刑務所から手紙が
そもそも、生前のイエス・キリストのもとに集まってきた人間は、故郷にいられなくなった人や罪人、遊女、奴隷など、社会から虐げられたり居場所がなくなったりした人たちでした。ですから、現在の私の行いは初期のキリスト教と似ているのかもしれません。
私の教会はこのとおり小さいですが、「元ヤクザの牧師がやっている教会」としてある意味有名ですから、全国の刑務所から手紙が届きます。
「刑務所ばかりの自分の人生をどうにかしたい」という一縷の望みが、文通相手の家族や親しい人の手を通じて私のもとに届くのです。失敗をして立ち直りたいと思っている人が、私という牧師を媒介にして、神様と出会うために立ち寄る灯台のような役割を果たせればいいなと思っています。