価値を根拠にした愛を「価値発見的」とするなら、神の愛は「価値創造的」です。因果関係は逆で、価値があるから愛されるのではなく、神に愛されるから価値があるのです。

牧師 水谷 潔氏
牧師 水谷 潔氏

失敗を恐れるのは、ミスをすれば自分の価値が落ちてまわりから愛されなくなる、あるいは自分で自分を愛せなくなると考えているからでしょう。しかし、神は失敗者にも成功者と同じく愛を注ぎます。そう心得ておけば、就活で失敗することへの恐怖心が和らぎ、失敗していっとき落ち込んでも、次に気持ちを向けることができます。気になる異性にも自信を持って告白できるようになるのではないでしょうか。

神の愛が無条件であることは、クリスチャンにチャレンジャーが多いことと無関係ではないでしょう。明治時代、日本の社会を変革していったプレーヤーには、キリスト教に影響を受けた人が少なくありませんでした。たとえば初代文部大臣であり、近代的な教育制度を確立させた森有礼はクリスチャンでした。クリスチャンが文部大臣を務めることへの批判や反対を受けても改革を続けたのは、結果がどうなっても神から見捨てられるわけではないと知っていたからに違いありません。

聖書の登場人物の歴史的“大エラー”

5000円札になった新渡戸稲造や同志社大学をつくった新島襄、『代表的日本人』を書いた内村鑑三など、当時社会の変革に尽力した人々もクリスチャン。彼らの使命は、神様が喜ばれる社会をつくることであり、その使命を胸に歩み続けることが第一。成功か失敗かは小さなことだったのでしょう。

そうは言っても、失敗したら立ち直れないと不安を抱く人もいるでしょう。しかし、その心配は無用です。第2コリント4章8-9節には、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれますが、行き詰ることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」とあります。

聖書は、生身の人間であれば失敗がつきものであることを教えます。実際、聖書に登場する人はたいてい何か失敗しています。モーゼは導いた民があまりにわがままなので、怒ってあるところで不信仰なことをしてしまいます。

アブラハムにいたっては、エジプト王に妻を譲り、自分だけ生き残ろうとしたり、約束の子が待てずに女性の奴隷との間に子をもうけたりします。その子イシュマエルがイスラム教徒のもとになり、本妻との間にできた弟イサクがユダヤ教徒のもとになるのですから、アブラハムは歴史的な大エラーをしでかしたといっていい。

しかし聖書は、仮に失敗をしても、神の力によって、窮することも、行き詰まることも、見捨てられることも、滅ぶこともないと約束します。つまり失敗してノックダウンされたからといって、KOで敗退となることはないのです。実際、モーゼやアブラハムも失敗のたびに立ち上がって信仰に生きています。聖書には、完璧な人間になるための正解が書かれているわけではありません。むしろ逆です。人が失敗するのはあたりまえであり、そこで諦めずにチャレンジし続けることの尊さを説いているのです。