天下争乱を憂えた一途な思い
関ケ原の戦いが豊臣と徳川の戦いだったというのは誤解で、豊臣家臣同士の勢力争いだったのです。秀吉亡き後、遺書に従って豊臣政権の継続を願う三成と、受け継ぐといいながら自分の政権を狙う家康との争い。義は間違いなく三成にあります。しかし、義は事を起こす名目にはなりえても、世を動かすには至りませんでした。
戦いのあと、三成は再起を考えて一人落ち延び洞窟に身を隠しました。しかし追っ手に捕まり鴨川の川原で処刑されることになります。その道すがら、喉が渇いて水を所望しました。処刑役人が農家の庭先の柿を渡そうとしたとき、三成は「これを食って腹を壊したらどう責任を取るつもりか」と一喝して口に入れなかったといいます。三成はあきらめていなかった。最後まで豊臣政権を継続させるために揺らぐことがなかった。これをブレない信念と受け取るか、往生際が悪いと罵るか、皆さんの感性の問題です。私はここに最後までブレなかった、武士(もののふ)の意志を感じます。
その後、佐和山城は落城しますが、検分した武将は、19万5000石の大名の屋敷とは思えぬほど質素だったと驚きました。そこには、あまりに真っ直ぐな、再び天下が乱れることを憂えた男の一途な生き方がありました。41歳の生涯でした。
司馬さんの『関ケ原』では、初芽という女性が登場します。初芽は三成の想われ人という設定です。この作品の最終章に印象的な場面があります。三成の死後、彼女は尼になり、京に庵を結んでいました。ここに黒田如水が訪ねてきて、初芽に、「あの男は、成功した」といいます。「あの一挙は、太閤への何よりもの馳走になったであろう。寵臣までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ、人はけじめを失う。三成がかなわぬまでも行った挑戦であり、あの男は、成功した」と如水にいわしめるのです。これは司馬さんのメッセージだと思います。
その庵の垣根が「姥芽樫(うばめがし)」。初芽という女性が齢を重ねてひっそりと尼暮らしをしている。その垣根が、姥芽樫になった、と。このさりげなさ。司馬さんはやはり凄い人だなと、改めて感服させられました。