石田三成は、私の好きな人物の一人です。歴史は往々にして勝者の側から語られがちですが、敗者側の歴史も見なくてはなりません。三成への批判は、関ケ原の戦いで家康の敵だったがゆえの“言われよう”なのです。
三成は、まさに敗者であり、徳川に刃向かった悪役として扱われることが多いですが、三成ほど企画力に富み、実行力を伴った人物は少ない。極めて優秀な官僚だったけれども、決して怜悧な人物ではなかったのです。豊臣家のために生きるという志は死ぬまでブレませんでした。
司馬遼太郎さんの『関ケ原』は、三成の生き方を家老・島左近が見つめ続けるという物語で、三成を書きつくした小説として堪能しました。『関ケ原』は、近江の国で三成と秀吉の出逢いの場面から始まります。皆さんがよくご存じの「三碗の才」の逸話です。鷹狩りの帰途、寺に立ち寄った秀吉が茶を所望しました。寺小僧であった佐吉(三成)が三杯の茶を献じる。そこで秀吉は相手の状況と気持ちを汲み取る気働きに感心し、三成を小姓として召し抱えます。三成が14~15歳の頃の話ですが、この導入部を読んだだけで司馬文学は読者を掌中に入れてしまいます。
秀吉の歴史に残る大事業は刀狩りと検地ですが、三成の卓抜した企画力が発揮されたのが検地でした。秀吉は敵を倒すごとに領地の検地を行いました。現地に出向き、複雑な土地の所有関係を整理して隠田を摘発し土地の面積を測り、これに基づいて正しく収穫量を予測し、公平に徴税する仕組みをつくりました。
三成が25歳の折に検地奉行として手腕を発揮した記録が残っています。それに先立って、度量衡の統一も行いました。度量衡の考え方は奈良時代に中国からもたらされましたが、地域によって基準単位が違い、公平には程遠かった。そこで三成は6尺3寸を1間、1間四方が一歩で、300歩を1反、10反を1町という単位に決め、租税も二公一民と決めました。
三成は五奉行の一人、浅野長政と組んで、6年間で全国の検地を終えました。この結果、秀吉の直轄地は広がり、後に徳川家康がこれを天領とし幕府財政の基盤としたのは、歴史の皮肉といわざるをえません。
三成は戦闘の現場では特筆すべき軍功は残していません。しかし、戦場に不可欠な食糧、軍馬、飼料、武器などを調達し、安全に戦場に運ぶ兵站力において、天才的な能力を発揮しました。とりわけその兵站能力を最大限に示したのが1592年の朝鮮出兵です。三成は戦いの無益を説いて反対したのですが、秀吉は耳を貸さず、説得をあきらめて船奉行として九州の名護屋(現・佐賀県唐津市)に赴きました。