「官尊民卑」とは民が卑しいから
縁は、85年に行われた国際科学技術博覧会(つくば博)が生んだ。79年、経団連会長だった土光さんがつくば博の推進協議会の会長に就任すると、全体像を固める基本構想委員会の委員長に指名された。委員会を開くと、土光さんも出席する。ただ、「俺にはいっさい、発言させないでくれ」と言う。だが、ゴマすりが「土光会長、ご意見をどうぞ」とやる。それでも「言わん」とはねつけた。すると「じゃあ、これはいかがですか?」となる。でも、「俺が意見を言うと、みんな、その通りになる。それでは、牛尾君がやっていることではなくなってしまう。若々しい結論を常任理事会に出したとき、どうせ反対するだろうから、そいつらを掃いて捨てるのが、俺の役目だ」と、最後まで発言しない。
そんな土光さんに81年、第二次臨時行政調査会(臨調)への参加を求められる。40代の終わりを迎える年だ。土光臨調は、国の組織の簡素化と効率化を目指した。言い換えれば、戦後、堅固に築かれた様々な利権構造にメスを入れる作業で、既得権を握る面々から、いろいろな形で反対や妨害があった。
当時、国会に近い赤坂のビルに、部屋を借りていた。そこで、臨調の中核メンバーや改革派官僚らと密かに戦略を練り、国鉄、電電、専売の3公社の民営化案などをまとめる。会議に出る土光さんも、そこにはやってこない。いったん仕事を任せたら、その人間をとことん信用して使う「任用」の人だった。
そんな土光さんが、珍しく議論に割って入ったことがある。臨調のメンバーが「日本では官の力が強すぎて、民の力では改革などできない」と嘆き、官尊民卑の弊害を口にしたときだ。「官尊民卑は、民が卑しいからだ」。そう一喝して、「民間人同士が官に厳しい意見を言うと、必ず、誰かが官庁に告げ口する。そういう卑しい根性がある限り、官尊民卑は克服できない」と続けた。誰もが、その言葉を胸に刻んだ。
振り返れば、仕事でも社外の活動でも、多くの人の縁に恵まれた。そこから、いつのまにか身に付いたものが、折り重なっている。「老人キラー」とも冷やかされたが、経営でも政策でも世の「常識」と違うことを主張し、新しい切り口を示した自分を、諸先輩は面白がってくれた。
「霧の中を歩めば、覚えざるに衣湿しめる」――この程度の霧なら大丈夫だと思い、蓑笠も付けずに歩いていたら、いつのまにか衣が水気を含んで湿っていた、との意味だ。曹洞宗の開祖・道元の『正法眼蔵』にある言葉で、自分では意識していなくても知らず識らず影響を受けているのが人間関係の妙味だ、と指摘する。牛尾流の多くの縁も、この言葉に通じる。95年4月から4年間、経済同友会の代表幹事を務めたときも「衣湿る」が大きな支えとなった。
実は、70歳のころ、40歳の人間に「牛尾さん、それ、違うじゃないか」と言われ、ギクッ、とした。あのころの幸之助さんや土光さんも、そうだったのかな、と思う。
いま、改革は、どれをとっても不十分だ。でも、根気よく続けねば、日本は歴史の中に消えていった「王国」の一つになってしまう。次世代を担うビジネスパーソンたちに、そこに、もっと関心を寄せてほしい。その際、自分に幸之助さんや土光さんの役が務まるだろうか。傘寿を迎え、東日本大震災に遭遇し、ますます「衣湿る」を増やしたいと願う。