実際に会ってみたいか?
小説を選ぶ基準は登場人物の好き嫌いでいい

<strong>丸谷才一</strong>●1925年、山形県鶴岡市生まれ。東京大学英文科卒。64年に『ユリシーズ』の共訳で注目され、その後は小説『笹まくら』(66年)で芥川賞、『たった一人の反乱』(72年)で谷崎潤一郎賞を受賞。評論でも『後鳥羽院』(73年)で読売文学賞、『忠臣蔵とは何か』(85年)で野間文芸賞を受賞するなど常に一線で活躍している。
丸谷才一●1925年、山形県鶴岡市生まれ。東京大学英文科卒。64年に『ユリシーズ』の共訳で注目され、その後は小説『笹まくら』(66年)で芥川賞、『たった一人の反乱』(72年)で谷崎潤一郎賞を受賞。評論でも『後鳥羽院』(73年)で読売文学賞、『忠臣蔵とは何か』(85年)で野間文芸賞を受賞するなど常に一線で活躍している。

小説に関しては、いまの日本で主流となっている小説の読み方はすべて間違いだと思うのです。「この作品からは社会正義の思想や深遠な哲学が読み取れる」などと理屈をつけて論じられがちですが、もっと単純に、登場人物に好感が持てるか否かで良し悪しを判断すればいい。

たとえば、漱石の小説。いまでも『こころ』が一番売れているらしいけれど、僕には主人公の先生は不景気な男にしか見えない。先生が自殺するのもただの犬死にでしょう。それよりも『吾輩は猫である』の苦沙弥先生や『三四郎』の与次郎といった男は実に気持ちがよくて、一緒にビールでも飲めたらいいなあという気がする。

小説はこうやって読めばいいわけで、僕が小説では鴎外よりも漱石のほうが上だと思うのも、鴎外の小説に出てくる人物に魅力がないからです。

海外の作品でも、フィールディングの『トム・ジョウンズ』やデフォーの『ロビンソン・クルーソー』はとても人物に魅力があって、クルーソーくらいの男ならば一緒に孤島に漂流してもいいと思うほどです。いや、漂流はやっぱりよくないかな(笑)。スタンダールの『赤と黒』と『パルムの僧院』を挙げたのも同じ理由です。

それから、哲学者が書いたという点で異色の小説を挙げると、ディドロが18世紀に書いた『ラモーの甥』。われわれがいまでもCDで聴くことができるラモーという大作曲家に甥がいて、これがものすごくだらしない男で、太鼓持ちのような居候の生活をしている。彼がべらべら一人でしゃべる小説なんですが、彼がしゃべるのを聞いているうちに、この身分の卑しいひとりの男の中に広大な世界があることが明らかになる。名もない人間にも魅力があることを教えてくれるという意味で、たいへん先駆的な作品です。

20世紀の小説の特徴は、ディドロが『ラモーの甥』で実践した、社会的地位や財産、学問もない人間の内面を突き詰めた点にあります。その代表ともいえる作品は、ジョイスの『ユリシーズ』でしょう。プルーストの『失われた時を求めて』もいい小説ですが、こっちの主人公は資産も学問もある。『ユリシーズ』の主人公はダブリンに住むユダヤ人の広告仲介業者。社会的に認められず、妻にも姦通された情けない男ですが、小説はその男の平凡な1日を追っていく。『失われた時を求めて』は、作家志望者の一代記が長々と語られて、文学的成功を収めないうちに「自分の話を書けばいいかな」と思いついたところで物語がぱっと終わってしまう。

この2作品が非常に感動的なのは、みすぼらしい人物でありながら内部に壮麗な世界を持っていることです。カエサルのように歴史に名を残す大事業を成し遂げた人も偉いけれど、凡庸な人からも誇るべきものが見いだせる。そのことがわかると、読む者は激励され、とてもいい気持ちになれる。小説のおもしろさの一つは、こういうところです。