戦国最強といわれた騎馬軍団を率いた武田信玄。戦略家としてのみならず、「信玄堤(しんげんづつみ)」に代表される治水工事や金山開発を成功させるなど政治家としても一流だった。そうした成果の背景にあったのが、武田24将などの家臣団の活躍だ。

信玄は「自分が人を使うのは、その人の業を使うのだ」という言葉を残している。リーダーが人を使うとき、肩書や見た目で人を判断せず、その人物がどのような能力を持っているのかに重点を置くべきということである。

人を見た目で判断せず、能力で評価する信玄の姿勢としては、山本勘介の重用が象徴的だ。勘介は謎が多く実在すらも疑われる人物だが、上杉謙信との「川中島の戦い」では「啄木鳥(きつつき)の戦法」を編み出すなど卓越した戦略家として名を残している。ただ、『甲陽軍鑑』によると背が低く色黒の醜い男で、隻眼のうえ片足も不自由だったという。このため、長い間、仕官することができなかった。たとえば今川義元は、勘介の見た目を気味悪がって寄せ付けなかった。

ところが、信玄は違った。肢体が不自由なのは戦場での経験が豊富なためだと考え、逆に勘介を重用した。信玄は見た目に惑わされず、本質で人を判断する。こうした行動は家臣の心を掴む。信玄の下で働いていれば、容姿やへつらいよりも能力や働きを評価してくれるとの噂がたつ。信玄の評価方法は現代の「成果主義」であり、「加点主義」だった。

武田家の老臣、高坂昌信が書いたとされる『甲陽軍鑑』には、信玄による「武士の良し悪し、一夜限りの定め二カ条」が収められている。一カ条は「真面目な人間は大きな働きをする」。その理由として信玄は「真面目な者は恥を知るので常に心が明るい。心が明るければ諸事の行いは正しい。人にへつらうことがなく、軽率なことをせず、万事を知り尽くして慎重に物事を進める」と説く。そして二カ条では「不真面目な人間は大きな働きはできない」とする。その理由として「思慮不足である。あわて者である。人にへつらい、軽率である。うそをつく。物事を突き詰めて考えることをせず、武士道をわきまえない。立派な人物であっても、自分と肌が合わなければ、すぐに悪口を言う」という。

重要なのは、信玄がこれらを「一夜限りの定め」として、「武士の働きやその評価などは一夜で大きく変わる」と考えていたことだ。1度下した評価にとらわれず、毎回の成果を重要視する姿勢を明確に打ち出している。勘介のように能力を発揮できれば重用されるし、逆に失敗しても名誉を挽回するチャンスはまたやってくる。そこには厳しさだけではなく、部下を思いやる優しさがある。

さらに褒美の与え方にも、信玄は工夫を凝らしていた。戦国時代、一般的な褒美は金貨だったが、信玄はあえて大小の刀や家紋入りの羽織を褒美として与えていた。合戦の場では、目覚ましい働きをした部下にすぐ褒美を与えられるように、手元に刀や兜が置いてあったという。

なぜ、そこまで現物支給にこだわったのか。金貨は黙って1人で使ってしまう可能性が高いからだ。大小の刀や羽織なら、自ら身に着けるばかりでなく、後で自分より下のものに譲ることもできる。すると、それを見たものが同じものを欲しがって競い合うように手柄を立てるようになる。つまり、金貨を与えないことが部下のモチベーション向上に繋がるのである。企業でも賃金や賞与以外の報酬として、自社株購入権が注目されているが、信玄はこの原理を知っていた。

人心掌握のための“最新理論”は数多くあるが、根本は400年前も現代も変わらないように思う。信玄の施策はどれも当たり前のことだが、それをきちんと公正にやったのが信玄なのだ。