コロナで現れた社会の分断

理由は3つ考えられる。1つ目は、3.11と違い、「人と会うこと」が徹底して避けられたことだ。手と手を取り合い、「この難局を乗り切ろう」という連帯感は、今回のように、個々人が各家庭に引きこもる状態では生まれにくい。デモも集会もボランティアも、人が集まって生まれる熱狂が原動力となりうるが、ここを分断されてしまっては、連帯感よりむしろ孤独感やストレスが増してしまう。

2つ目は、社会構造の分断が、コロナにより図らずも明らかになった点だ。「人との接触8割減」を目指そうにも、それをできる人とできない人がいる。在宅勤務が可能なオフィスワーカーは全就労者のうち3割弱。医療従事者の過酷な現場はもちろんとして、スーパーやドラッグストア、運送業や製造業に携わる人々の間には、「在宅したくてもできない」事情がある。そういった人々の状況を指して「在宅できないなんてかわいそう」「いまだに外出しているの?」といった、非難とも同情とも受け取れる「コロナマウンティング」が襲った。

3つ目は、「常識」が各人によって乖離していた点だ。津波や地震、台風の恐ろしさは、その光景を見れば誰もが理解する。だが、目に見えないウイルスの「脅威」に対する受け取り方は人さまざまだ。

「この人は無理……」と思ったら、どうするか

一日中、家でニュースやワイドショーを見まくっていれば、ウイルスの恐ろしさはビシバシ伝わってくる。だが、毎日出勤して忙しく仕事に追われていれば、新聞やテレビを見る余裕は失われる。そもそも普段からSNSのみを情報源としている人もいるだろう。

「コロナ=風邪の一種」レベルから、「コロナにかかったら死ぬ」レベルまで、人々の認識には大きな隔たりが生まれた。世代の差や職業差、居住地の違いによって、人々の意識も分断されたともいえる。

とはいえ、いつまでも人間関係や社会を「分断」させておくのもモヤモヤする。相手に対して、「この人は無理……」と思ったら、どうすればいいのか。

1つの考え方としては、「ストレス下の対応は、その人の本質」と考え、人間関係の断捨離を行う方法もあるだろう。「失言」や「ついうっかり」は、その人の「ホンネ」でもある。いくらストレス下でも思ってもいなかったことを言ったり、行ったりすることはまずない。日頃感じつつ、ウヤムヤにしてきた関係性を、この際すっきり整理してみるのもアリだろう。