1人の記者としては「取材活動」を否定できない

現役記者・新聞社幹部たちは、記者と取材対象者が「麻雀」に興ずるのをどう考えているのか。筆者がまず注目したのは東京新聞・望月衣塑子記者。日頃ツイッターでの発信を盛んに行っているが、この件についての書き込みは意外にもあっさりとしたものだった。

「#かけ麻雀 の場に司法記者や元記者が参加していた問題への批判を、私たちメディアは自分ごととして真剣に受け止め、これからの取材のありかたを考えなければいけない。権力に近づくことと、緊張感のない馴れ合いや癒着は別物だということを忘れてはならない。」

黒川批判、黒川への処分が軽いとする政府批判は、他者のツイートのリツイートも含め抜かりなく行っているが、記者のスタンスに関しては実に一般論的なコメントと言える。ここに「いつもの望月記者らしさ」が読み取れないのはなぜか。深読みすれば、政治部記者のように政治家に取り入る必要がない社会部のポジションで苛烈な政権批判や官房長官会見でのツッコミを行う望月記者も、1人の記者としては、賭け麻雀はともかく酒席を共にするなどの「取材活動」そのものは否定しきれないのかもしれない。

「エビデンス? ねーよそんなもん」「え、ないの!?」

もう1人は朝日新聞・高橋純子編集委員だ。政治部次長時代の2016年2月、朝日新聞紙面の「政治間断」欄で「だまってトイレを詰まらせろ」と題する安倍政権批判コラムを書き、世間を騒然とさせたお方だ。

クオリティペーパーを自任する朝日新聞の紙面らしからぬ「妙な味わい」のあるコラムは、読者のみならず社内、OBまで加わっての賛否両論を巻き起こしていると聞く。しまいには著書『仕方ない帝国』(河出書房新社)で「エビデンス? ねーよそんなもん」とブチかまし、その地位を確固たるものとした(ちなみに本書は表紙もえげつない)。

そんな高橋氏、自社と権力が絡んだこの不祥事を前に何を思うのかと心待ちにしていたところ、5月27日に「多事奏論」が掲載された。

まずは軽妙に「アベノマスク」いじりを披露し、後半、話は検察庁法改正案へ及ぶ。最後の1文はこう締められていた。

「コロナ禍という特殊状況下で何らか政治意識が変化しつつあるならば、それをどう現実政治の舞台で表現するか。政党やメディアの踏ん張りどころだ。マージャンしてる場合ではない。うん。自分に言ってる。」

4月末掲載の同欄では「ひとり鏡の前に立つ午前10時48分。カッコいい中指の立て方を、研究してみる」と書いていた高橋氏。中指を立てる練習と麻雀、どちらがよりよい政治・紙面につながるのだろうか。