漱石や森鴎外を読み直すことも大切

小説ではほかに、最近、夏目漱石を読み直しています。明治以降の、いわゆる近代文学の文豪のなかで誰か一人となると、やはり漱石で、現在の年齢で読むと、学生時代に読んだときとは、味わいが全く異なっていました。

とくに、『三四郎』以降の『それから』『門』『行人』『こゝろ』が描いている人間の内面的な問題には現代に通じるものを感じさせられます。明治の知識人が新しい時代の中で感じたジレンマ。

親のスネをかじりながら、時代の先端を行くような精神世界に住み、現実世界との葛藤に悩む。能力がありながら自分の力を十分に世の中に対して発揮できない。現在のフリーター等の問題にも通じるところがあるのではないでしょうか。

自分がどのぐらいの本を読んできたかとふり返ると、あまり心に残ったものがないと感じてしまうのも事実。ある程度の年齢になったところで、漱石や森鴎外を読み直すことも大切だと感じました。

ところで、私の出身地の出水(鹿児島県)には、武家の子弟向けの教えとして「出水兵児(へこ)修養掟」というものが伝わっています。

出水は薩摩藩が肥後(現在の熊本県)と接する国境の地にあったため、地元の兵児(青少年)たちに対して、先輩が厳しい教育と訓練を施したと言われます。その「掟」が伝統として受け継がれており、私も高校の一室に扁額として架けられているのを見て育ちました。

それは、「士(し)は節義を嗜(たしな)み申すべく候(そうろう)」で始まるもので、嗜みとして、嘘を言わない、独りよがりの考えを持たない、素直で礼儀正しく、目上の人に諂(へつ)らったり目下を侮ったりしない、困っている人は助ける、約束は必ず守る、人の悪口を言わない……等々が記されています。

大学生となって下宿したり社会人となって世間が広がれば広がるほど、私は、わが故郷にはいい教えがあったなあと、つくづく感じるようになりました。

若いときの読書は人間の成長にとって不可欠だと言われますが、この「修養掟」を目にして育ったことも、私にとっては貴重な読書の一種だったのではないかと思っています。

(構成=小山唯史 撮影=大杉和広(人物)、小林久井(本))