「学習する」という言葉の本当の意味

「学習する」という言葉の意味するところを、ここではっきりさせておきたい。辞書で意味を引けば、定義がずらりと並ぶ。たとえば、「何かの知識を得ること」「情報を得る、もしくは何かに精通すること」「何かを覚えること」などだ。

「何かの知識を得ること」は、何かについて学ぶという意味で使われることが多い。ここでいう「知識」は情報を指す。よってこの定義は、「何かについての情報を得ること」とも言い換えられる。

だが、私はそれを学習とは呼ばない。それは調査だ。情報を得ようとすることで、短期的に有意義な学習はできるかもしれないが、本物の学習ができる見込みは一切ない。

次の「情報を得る、もしくは何かに精通すること」という定義も基本的には同じことだが、長期的に役立てるというより、一時的に情報を検索するという意味合いが強い。

最後の「何かを覚えること」は、私が思いつくなかで最悪の定義としかいいようがない。何かについて定義できるからといって、それについて理解していることにはならない。ただ単に、定義を暗記しているというだけだ。

暗記と学習の違いはどこにあるのか。暗記は所定の情報を脳内に保存することだが、学習はその情報が何を意味し、その情報の状況に応じた最善の生かし方を理解することだ。

暗記は学習ではない。どうみても、学習という複雑なプロセスのごく一部を担うものでしかない。

事実の取得と暗記は現代ではほぼ無意味

学習のプロセスは、「取得(事実を見つける力)」「暗記(事実を覚える力)」「理解(事実を活用できる力)」の3つに分けて考えるとわかりやすい。いまはテクノロジーのおかげで事実の取得がとても簡単になり、暗記がほぼ無意味になったため、残るは「理解」だけとなった。そして、これが学習にとっていちばん欠かせない。

学習とは、事実そのものを知ることではない。事実が何から成り立っていて、それをどう生かせるかを理解することだ。事実は単なるパズルのピースにすぎず、パズルそのものではない。

パズルを初めて体験するという人は、目の前にあるパズルのピースを覚えることに時間を費やしてもいいが、パズルのやり方を理解することに時間を費やせば、どんなパズルもできるようになる。

私は、“教育のリワイヤリング(配線のやり直し)”を提唱しているが、このリワイヤリングを突き詰めると、「生徒に学習させたいことの教え方を変えること」という意味になる。情報を配って事実をムダに暗記させることは、もうやめるべきだ。

これからの教育は、子供たちに事実を本当の意味で理解させると同時に、批判的にものごとを考えるクリティカルシンキングや自由にアイデアを広げるクリエイティブシンキングを教え、子供が自ら新しいことを発見し、理解し、生みだせるように導くものであるべきだ。