中野から新宿へ、「新宿タイガー」の誕生

中野から新宿に移ったのは1972年。配達する新聞は読売から朝日に変わった。

ピンクアフロのカツラで話す男性
撮影=永井浩

最初に担当したのは新宿3丁目。新宿駅の東側、甲州街道と新宿通りに挟まれた繁華街である。甲州街道の北側には歌舞伎町がある。

そこは映画館、飲み屋、キャバクラ、風俗店、ライブハウス、紀伊国屋書店、伊勢丹……と硬軟織り混ざった雑多な街である。演劇や出版に関わる人たちが夜な夜な酒を飲み、口角泡を飛ばして議論していたゴールデン街もある。

原田さんが夕刊配達後に映画館に入り浸るのは変わらなかったが、映画の後はゴールデン街などの飲み屋でお酒を飲む楽しみを覚えた。

そこで多くの女優やタレント、演出家らと出会う。ちょうどそんなころに稲荷鬼王神社でタイガーマスクのお面に出会ったわけだ。

「ラブ・アンド・ピース」と「シネマと美女と夢とロマン」

原田さんら「団塊の世代」は政治や経済、社会のあり様に異議申し立てをした世代である。反権力を声高に唱えたが、その多くが大学卒業後は企業に就職し、ビジネスの世界に入っていった。80年ごろの「ジャパン・アズ・No1」や80年代後半からの「バブル経済」へと向かう時代には「企業戦士」に変わっていった。

一方、原田さんは大学を2年でドロップアウトし、新聞配達員として新宿で働いた。新宿は猥雑さが充満する街であり、新宿西口に行けば超高層ビルが建つビジネス街でもある。表と裏や新旧という二面性を抱えた新宿だからこそ、彼我の差も身に染みる。

かつて「エコノミック・アニマル」とまで揶揄された日本企業で働く多くの同世代とは異なる人生を歩んでいた原田さんにとって、生きるためのアイデンティティーが必要だったのではなかったかと思う。

それが「ラブ・アンド・ピース」と「シネマと美女と夢とロマン」のために生きるという50年近くもぶれなかった価値観だったと言えないだろうか。そんな価値観へと人生の振り子を大きく振り切るにはタイガーマスクのお面は格好の小道具である。

夕刊を配り終えたら虎のままゴールデン街へ

タイガーマスクの仮装をして仕事をするような人は滅多にいない。世俗とは隔絶した存在でいられる。その格好のままで飲み屋に行けば、お店のママもお客も喜んでくれる。

ゴールデン街に行けば、そこで出会った女優らの悩みを聞いては励ますことも多かった。そんな原田さんの姿がドキュメンタリー映画として上演されるようになったのだから、「新宿タイガー」になったことで人生の彩りが増えたことは確かである。

ピンクアフロのカツラにタイガーのお面をつけた人
撮影=永井浩

「そんなややこしい話ではない。目立とうと思ったわけではないよ。1972年にタイガーのマスクを見て、ビビッと感じただけよ。虎に生まれ変わろうとね」と原田さんは言い張るが、私のような凡人には少しややこしく考えないと、原田さんの人生行路は理解できないのである。