シェフ不在の中、「やります」と即決した理由
ほのぼの屋開業から3年ほどした2005年、当初のシェフが退職することになり、西澤らは次の料理人探しに奔走した。作る人間がいなければ、スタッフがどれだけ頑張っても、休業状態になってしまう。知人を通じて、藁にもすがる思いで糸井の店を訪ねた西澤の誘いに対し、糸井はその場で「僕がやります」と即決した。驚きの表情を浮かべる西澤らに対し、糸井は自ら念を押すように「7月の20周年記念までの3カ月待ってくれたら、必ず自分が行く」と約束した。自身の店を閉めるという事さえも、奥さんや子どもに相談せずその場で決めたという。
「出会いとタイミングですわ。家内も反対しなかったしね。ついていかなしゃあないでしょ? ってなもんでね。まぁ、ホテルで20年間シェフとして勤めて、誘いがあったのもちょうどね、自分の店を持ってから20年やったんです。僕の人生、不思議と20年周期で回っていて、あ、タイミングかな、運命かな、と思ったんです」
20年を人生の区切りだと捉える糸井だが、「運命」という言葉を持ち出してまで語ったのは、単なる年数の一致だけではない。糸井は、その理由をこう明かしてくれた。
「私の姉にはね、知的障害があるんです。小さい時から、姉を見ながら、そういう環境で育ってたから。親の苦労も知ってるし、周りの色んな人に助けられて、世話になりながらここまで来る事ができたのも、よく知ってました。だから、この話が来た時に、あぁ、これは僕に行けということやなぁと感じたんです」
少しでもこれまでの恩返しができるかもしれない
続けて、天を仰いで独白した。
「姉は特別支援学級に行ってましてね。その都度、その都度、色んな先生にお世話になってます。うちは姉と兄がいて、ボクが末っ子の三人きょうだいなんです。生まれた当初は、知的障害とはわからないからね。姉が物心ついた頃に、まだ喋らへんなぁ、という感じでした。障害とわかった時、親はショックですわね。やっぱ、両親としては次の子ども産むって勇気いりますよね。
ぼくは末っ子やから、その想いを乗り越えて産んでくれたってことに感謝せなアカンのです。普通やったら姉で終わりにしようと思ったかもしれんし。親の決断も含めて感謝せなアカンし、大げさに言ったらそういう生き方せなアカンなと。ほのぼの屋で料理を振舞う事で、何か少しでもこれまでの恩返しができるかもしれない、そう考えたんです」
糸井58歳の春。自身の人生設計に頭を巡らせた場合に、20年続いた自身の店を、さらに大きくするという選択肢もあった。だが、姉の存在と、自分が存在することへの感謝の念が、彼にほのぼの屋で働くという道を歩ませたのだ。