感染者をたたくことは水面下での感染爆発を生む

これとは逆に、感染してしまった人に対して、過去の行動を不用意だと非難したり、自己管理の不徹底だと断じることによって、感染の原因と責任を当事者にすべて負わせることが常態化している組織や社会では、感染経路が表面化しなくなるだけでなく、感染者が感染の事実さえも隠そうとすることにもつながりかねず、非常に危険だ。

当然ながら、ウイルスというのは、日常生活の中では誰の目にも見えない。感染している人としていない人を、見分けることもできない。

もし自分が感染してしまったときに、過去の自らの行動を振り返って、「あの外出のときに感染したのかも?」と思ったところで、本当にそのときに感染したのかを特定することは極めて困難だ。

ましてや無関係の第三者が、感染者の過去の行動と感染成立の因果関係を証明するなど完全に不可能だ。それにもかかわらず、ネットの世界などでは、無関係な第三者が、感染者の過去の行動を不用意だとして非難、いわゆる「炎上」させるなどして、集団でたたく行為が少なからず見られる。しかし感染者の行動を非難したたいたところで、感染拡大抑止には、何ら効果を発揮しない。抑止にならないばかりか、感染者をたたいたり、スティグマ化することは、感染者を孤立化、潜在化させ、さらに水面下での感染爆発をも誘発させかねない危険な行為と言えるだろう。

「不用意な行動」かどうかは当事者しかわからない

「不用意な行動」については、感染してしまった当事者本人が、過去の自らの行動をさかのぼって思い出して反省するだけで十分だ。仮に不用意な行動であったと自省した場合でも、それが故意に感染拡大を企図した行動でないのであれば、謝罪も一切不要である。

自由な行動が制限される閉塞した現状だから、「自分は我慢しているのに、勝手な行動しやがって」という気持ちから非難したくなる人もいるだろう。しかし、人をたたいたところで、現状が変わるわけでもない。「自分は気をつけよう」と自ら気を引き締めるだけで十分ではないか。

そもそも人は、それぞれに異なった事情を抱えながら生きている。

第三者には「不用意な行動」と見えるものでも、当事者にとっては生活に必要な行動という場合もあるのだ。その事情を熟知しない人たちが、勝手な思い込みや感情だけで、他者の行動を「不用意」であると断じて非難したたくことが放置される社会のままでは、今後さらに感染拡大が進むなかで、多くの感染者が見えない水面下で増殖していってしまうだろう。そのことが非常に危惧される。