そして『般若心経』は「この世のすべては空(=無我)」であり、この世にまったく変わらない存在、永遠不滅の存在などどこにもないと教えます。この体、心、モノ、目に映る風景、現象、すべては互いにかかわりあいながら移ろい変化し、“固定したままずっと変わらない実体”など本当は一つもない、ということです。

心でいえば、当時の私が感じたように「自分は情けない」とか「自分はダメ」と思う心にも実体などありません。ところが、なぜか人間はこの「実体のないもの」にとかく振り回されてしまうのです。もともと実体がないのだから何事にも執着せず、自由な心で生きること、これによって苦しみや迷いがなくなることを教えてくれます。日々安らかに生きるための「心の智慧」を授けてくれるのです。

ではどのようにすれば自由で安らかな心の智慧は得られるのでしょうか。そのカギを探してみて、私は「入室参禅」の修行を思い出しました。

修行時代、そろそろ坐禅も板につく頃になると、禅問答の機会を得ました。喚鐘(かんしょう:鐘の一種)を打って、老師の待つ部屋に入って対坐します。そこで老師から質問を受けるのです。

「庭先の石地蔵さんをここへ持ってこい」「曲がった木をまっすぐに見ろ」「片手で拍手してみろ」……。

こうした問いかけの題材を「公案」といいます。もしもあなたがこうした公案を投げられたら何と応じますか。やはり首を捻るしかないのではないでしょうか。

よくチンプンカンプンという意味で「禅問答のようなやりとり」といいますが、私も最初はまさに意味不明でした。しかし、そもそも公案とは非論理的なものなのです。その非論理性をわからせるために、公案をぶつけて、分別の届かない境地に突入させるのだということが次第に理解できるようになってきました。

老師に「無の境地に程遠い」と思われれば“鈴”を鳴らされて、問答の時間はハイそれまでとなります。さきほどの公案に対する答えについて何かぶつけるとしたら……どう考えたらいいのか示すことは難しいでしょうか? ビジネスの場面において、数字による明確な判定しか信じない人にとっては、何とも摩訶不思議な世界と映ることでしょう。

今まで自分が常識と思っていたものを一度捨て去ってしまい、なおかつ有とか無とか相対する価値観を根こそぎ取っ払ったとき、初めてその問われた意味が体でわかるのです。とにかく迷ってはいけない。まずは目の前のことに集中する。要は自分をさらけ出し、対象に即座になりきり、一体化することなのです。

こうした禅問答の考え方は「空」を得るためのヒントといえるでしょう。まさに体験実践の世界であり、ビジネス社会と通じるのではないでしょうか。

(松田健一、平地 勲=撮影)