当時、『般若心経』を読むときの心得としてよくいわれたことは、腹の底からまくし立てるように読む……。自分の声に酔いしれるように読む。そして頭の先から足の先まで、『般若心経』に入り込んで読む、ということでした。

般若心経 全文
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般若心経 全文

言うならば『般若心経』に“なりつぶれ”そして“ありつぶれる”。自他の分別を取り払い、一体感すら覚えるほどに、その対象に入り込んでいくということです。『般若心経』の経本と一体化し、それ以上に集中することで、知らず知らずのうちに「イジケ虫」だった私の心は「イジケ無視」の境地に入っていきました。

十代の頃、鎌倉の禅寺で、生まれて初めて『般若心経』を読んだとき、印象に残った言葉が、お経をしめくくる「羯諦」の二文字でした。

意味もわからぬまま、他の人と声を合わせてこのお経を読んでいたら、「羯諦羯諦 波羅羯諦」のところで読経の声が一段と高まりました。数十人が腹の底から唱えれば、かなりの迫力、大音響です。これに合わせて自分も少し声を上げてみたら、思いがけず心がほどけていく感じがしたのです。

大音響の中で読経していると、余計なことなど考えられないものです。ノルマがどうだとか、上司にイヤなことを言われたとか、そんなことはどこかに飛んでしまいます。ビジネスの局面では、仕事に出掛ける前に「ぎゃーてぃ」を唱えると志気がぐっと高まり、思いがけず人脈が広がったり、念願の企画が通るということもありました。

声を出すことは気持ちがいい。そのことは、みなさんも日常生活の中で体験されていると思います。たとえば、カラオケで大声を出すと、日頃のストレスが発散でき、気分がすっきりします。腹を抱えて笑うと、そのあとが爽快です。音には心を浄化する力があるとよくいわれますが、音読するだけでも、私たちはその音の力を体験することができます。

私は「羯諦」を密かに「イジケ無視の特効薬」と呼んでいます。自分のやりたい仕事がわからない。会社に夢が持てない。そもそも自分は何者なんだろう。そんなふうに、自分を持て余してしまったとき、「羯諦」はまさしく特効薬になってくれるはずです。

21世紀は宗教の時代であるという予言があります。しかし、現代のように宗教が過去の遺産として埋没していては、その使命を果たすことができないでしょう。私は宗教、とりわけ『般若心経』は心のデザインであると考えます。つまり、人間の生き方、死に方のデザインをしているのではないでしょうか。

人間の現実の世界は、神と人間、自然と人間、精神と物質等、対立的な現象として展開していますが、本来この対立概念は、水と波との関係で、水を離れて波はなく、波を離れて水はないように、本質的には一種の二義性であります。そこで、自他同一性という根源に立ち返るレッスンが『般若心経』を吟ずることではないでしょうか。

(松田健一、平地 勲=撮影)