ビジネスマンは今、ノルマ、リストラなど答えのない問いをつきつけられています。現在の大変革期を乗り切るときの心の拠り所となり、かつ果敢なチャレンジのヒントを得られるのは『般若心経』ではないかと考えます。

老師 井上暉堂氏
老師 井上暉堂氏

私は十代から禅道の修行を続け、45歳で老師を拝命した一方で、10社近くの転職を経て、アメリカにて「べに花」経営者で知られるロッキー青木氏の秘書として勤めました。彼の影響からMBAを取得したり、会社を立ち上げるなどビジネスの世界にも挑戦し、その経験から導き出した実感です。私の経験から『般若心経』の智慧をひもといてみましょう。

そもそも『般若心経』は「般若波羅蜜多心経」の略称ですが、これはサンスクリット語(古代インドの文章語)で「心の智慧」の意味。流布本では般若波羅蜜多に「仏説摩訶」という修飾がついていますが、「摩訶」には「偉大な」「大きな」という意味があります。つまり、般若心経は「偉大なる心の智慧」ということになります。

では、「偉大なる心の智慧」とはどんな智慧なのでしょうか。過去を振りかえってみると、私にイジケ虫がすみ着いたのは、中学3年生の頃、日課の新聞配達の途中、遭遇した交通事故で死にかけたのがきっかけでした。約2週間、生死の境をさまよった末に奇蹟的に意識は戻りましたが、半年の休学を余儀なくされてしまいました。脳波がわずかに乱れ神経系が麻痺して、なかなか正常に戻らなかったのです。

中学生とはいえ、それまで挫折というものと無縁だった少年が、いきなり虚無の世界に放りだされました。後遺症、留年、編入という一連の流れのなかで、「1年遅れの落ちこぼれ」という意識が強くなってしまったのです。自分は情けない人間、ダメな人間なのではないかと思い、今のビジネスでも同じ気持ちに支配されてしまいます。そう決めてしまうのは、なぜでしょうか。

それは、私たちに“分別心”があるからです。分別心、すなわち自分の心の中にある小さなモノサシ(つまり世間のモノサシ)で自らを測り、こっちはよくてあっちはダメと、何でも二元対立のようにAとBに分けて考えてしまうことです。

私にかぎらず、人間は誰でも分別する心を持っています。言葉を換えれば「差別」する心、比べる心です。いいと悪い、好きと嫌い、富と貧、上と下、勝ちと負け、キレイと汚い、生と死……、あたりまえすぎて、意外と気づきませんが、私たちは自分を取り巻く世界をいつも差別して生きているのです。

一般に「あの人は分別がある」はホメ言葉として使われます。ところが、分別というのは誠に厄介で、さまざまな苦しみや迷いを生み出します。分別すれば、いいと悪いを対極において見ることになり、「いい」になれない自分がどんどんみじめになったり、苦しくなったりします。その当時の私は学年が1年遅れた自分を悪いほうに“分別”したために、大きな苦しみ、悩みが生まれました。

しかし、ここでもし情けない自分に歩み寄り、さらに一つになってしまうことができたら、「情けない」は自然消滅します。原因がなくなれば、結果としての苦しみも生まれません。そして、この分別しない智慧を授けてくれるのが『般若心経』なのです。

では、「分別しない智慧」とは何でしょうか。一言でいえば「空」の教えです。仏の教えが集約された『般若心経』には「空」という文字が方々に出てきますが、この「空」こそ、このお経の主題なのです。「空」の意味は、ごく簡単にいえば「実体がない」ということです。