業を煮やしたミラノ市は、中国人会の代表者と幾度も折衝を重ね、卸売業者をミラノの北西20キロの、アルファ・ロメオの工場跡地があるアレーゼに移転させると発表。だがこの交渉は結局決裂し、次にミラノ南端のアッビアーテグロッソに、当初計画よりもさらに広大な土地が提案されたが、これも合意には至らなかったようだ。結果としてミラノの中心部にとどまれているという意味では、中国人側の完全勝利である。

2000年代に入ってから中国系移民が急増

80年代に入るまでは、ミラノにおいては中国人はまだまだ珍しい存在だった。記録によれば、1975年にはイタリア全土でも中国人は402人しかいなかった。それが80年代には福建省から、90年代には中国北部からの移民が徐々に増え始めた。

2000年代になって鉱山の閉鎖が相次いだことをきっかけに、中国から大量の失業者がイタリアに流入。2005年には約11万人だった中国人は、10年には約19万人、15年には26万5000人にまで達した。イタリアにおける移民の数としては、近隣のルーマニア、モロッコ、アルバニア、そしてウクライナ(いずれも国家破綻した国ばかりだ)に次ぐ数である。

とはいえ、その頃までのイタリア人と中国人の関係は、上記のパオロサルピを除けば友好的なものだった。中国本土からの観光客も増え、17年には年間150万人の中国人がイタリアを訪れた。一人当たり1200~1600ユーロ(約15万円~20万円)を落としてくれる中国本土からの観光客は、それまでの上客であった日本人に代わるものとなり、レストランのメニューやフロア案内など中国語表記が目立つようになる。年間5000万人が訪れる観光立国であるイタリアを支えているのは、もはや中国人なのだ。

中国の公安がイタリアの都市をパトロール

ちょうどその頃、耳を疑うようなニュースがあった。増加する中国人観光客の保護を名目に、中国の公安がイタリアのカラビニエリ(軍警察)と合同パトロールを始めたのだ。期間は10日間、イタリア・中国ともに4人づつ、公安の制服は着ているものの中国側は非武装。相互的に、イタリア人警察官も北京と上海で同様の活動を行った。あくまで両国の親善が目的だという立て付けだ。

とはいえ、他国の警察官が法的な権限を与えられて活動するというのは、国家主権に関わる大問題だ。この合同パトロールは18年にはミラノだけでなく、ローマ、ヴェネツィア、そしてプラートの4都市に広げられた。

オーストラリアの知識人クライブ・ハミルトンが、同国の政界や市民活動に対する中国共産党の影響力の拡大をテーマとする「サイレント・インベージョン~静かなる侵略」を発表したのは、まさにこの年。翌年には同様に、カナダにおける中国の影響力の増大を描いたジョン・マンソープの「パンダの爪」も話題になった。