日総工産は「製造請負」の大手企業だ。創業者の清水唯雄は溶接工としてキャリアをスタート。20代半ばで独立し、造船・鉄鋼分野で多くの職人を動かしていたが、高度成長期に入り、一般製造業からの依頼が急速に増えていった。工場の人手不足を解消するため、清水が採った秘策とは──。
※本稿は、清水唯雄『のっこむ! 「ものづくり日本」を人で支えた半世紀』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
求人誌のない時代に、大量の人材を確保する方法
1960年代後半、日本は高度経済成長の波に乗り、年10%を超える経済成長が続いていました。新幹線や高速道路をはじめとする交通インフラの整備も進み、公共工事や建設の需要が増大していきます。
こうした流れに対応してニーズが拡大していったのが建設機械や産業機械で、これらを製造するメーカーから仕事を受注することが多くなっていきました。私たちの仕事も屋外での溶接中心の業務から、工場内での作業へとシフトしていったのです。
工場の中に職人を送り込んで一部の工程の業務を請け負うという、今に至る日総工産の主要業務「製造業構内請負」のルーツは、まさにここにあります。ただ、必要とされたのは、溶接工のような熟練した職人ではなく“一般工”で、従来よりも大人数を配置するケースが多くなりました。
そのため、溶接工を集めていたときのように人づてや紹介などではとても追いつかず、かといって当時は求人専門誌などもありませんでしたから、依頼を受けて早々に行き詰まってしまいました。そこで、一計を案じることにしました。
それは、飲み屋に通うことでした。